形式化とメカニズム

引越すというのに古本屋でいろいろとまた本を買ってしまった。そのなかでも面白そうだったのがコレ。

思考のパラドックス

思考のパラドックス

このなかで多木浩二と「隠喩としての建築」について対談している。前に読んでうろ覚えだったので整理するためにちょうどよかった。多木さんから割と実践的な建築状況に関するフォローが入っているからなお面白い。ポイントは多岐にわたるが、形式化の徹底から「生きられる空間」が発見される、という点が通奏低音になっている。形式化と言えば建築史もパースペクティヴだ。

このトピックは柄谷も指摘しているゲーデルの問題や、そこから繋がる東のデリダ論、あるいはルフェーブルの空間論(空間の表象/表象の空間)だとか空間/場所という問題へとかかわっていくと思う。ちょっと気になったのは、建築における空間/場所の区分が、セルトーの議論では逆になっていることである。柄谷/多木モデルの、「形式化の徹底から」という原因が、案外一筋縄でいかなかったりすることを意味しているのではないか、などと思ってみる。


あと10+1のウェブサイトで八束さんの書評なんかをちょっと読んだりしている。上の話とは関係ないが、ちょっと読んでみたい。

Japanese Architecture as a Collaborative Process: Opportunities in a Flexible Construction Culture

Japanese Architecture as a Collaborative Process: Opportunities in a Flexible Construction Culture

日本建築のメカニズムを論じている。詳しくはサイトのほうで八束さんが書いているのだけど、これは最近のいろいろな事件の根幹にもかかわる話であり、ミースのパヴィリオン建設状況を論じた際に「いかにして建てられたか」を考える上でちゃんと把握すべき事柄だなあと思ったトピックでもある。単一の制作者ではなく、複数の関係者によって建てられる建築、という側面に視野を広げないと後々困るなとちょっと思っている。翻訳でないかな。