プロフェッショナルなんとか

昨日NHKの深夜枠で建築家の隈研吾がでてた。インタヴュー形式でお相手は脳の人茂木さんだ(バカの壁の人ではない)。再放送だったのかもしれないが、氏の著書のタイトル『負ける建築』をテーマに「規制による創造性」について話していた。

クライアントの嗜好、土地の状態、建築法規、規制とは建築家にとっての障害である。規制を語る際常にこうしたネガティヴなイメージが喚起されてきたのだが、じゃあ逆にその邪魔ものとしての規制がすべてなくなったとき、そのとき初めて「建築家の創造性」なるものは純粋な形で提示しうるのか。あるいはそもそも規制ゼロの状態などありうるのか。こう問われると答えは否である。隈氏の意見を推測するに、建築すべき一つの場所はそこに関わってくるいくつかの「規制」によって常に特別である。いきおいその「諸規制」に対するある建築家の取り組み方は特殊解として存在しうるのではないだろうか。隈氏のいう創造性とはこの解法としての建て方の特殊性にあるような気がする。

こう推測していくと、どうしても「何を建てるかではなく、いかに建てるかが重要だ」と言ったミースが思い出されるが、1920年代以降のミース言説史はきわめてデリケートな問題だと思っているのであんまり口出ししないでおこう。まあそれはおいておいても、もう一回『負ける建築』読んでみようかと思う。もし上の推測がひとまず正しいとしても規制を逆手にとったすばらしい建築はいくつも存在しているわけであり、テーゼとしてそれほど珍しいものではないような気がするのである。あるいはこれは「予算が足りなかった」「土地が狭すぎた」云々という「負け」のレトリックの解体作業だとも取れなくはない。妥協するなということか。それはそれで「そうですね」としかいいようがないのだけど・・・。