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晴れた日は巨大仏を見に

晴れた日は巨大仏を見に

うちの実家から電車で北上したところにも一体あって、電車に乗ってると「ぬっとしたもの」がうっかり目に入ってしまう。そんな巨大仏のせいで遠近法がおかしなことになった、だとか周りの景色とのギャップがおかしなことになった、だとかいう「マヌ景」を紹介しながら、著者がなぜこんなにも巨大仏に惹かれるのかについて書き記した本。
今や「巨大仏wiki」なるものまで登場している!→こちらからどうぞ「巨大仏wiki


著者も書いている通り巨大仏は昭和六十二年まで約五十年かかってわずか六体しか建っていなかったのだが、それから平成七年までの九年間(1987〜1995)で十体も完成している。うちわけとしては宗教法人が建てたものよりも個人が建てたもののほうが多いようだ(詳細不明)。ビルより管理が簡単で→ランドマークにもなるし→インパクトもある=巨大仏、というロジックになったかどうかは知らないが、この時代ピンポイントで「巨大仏熱」がささやかに高まったことがとても気になる。

巨大仏が、「ぬっ」とした印象を持つのは、それが仏さまであるという意味を失って、そこにそんなオブジェが唐突にあるだけの風景として見えるときだった。……モノは、その意味を剥奪されたときに、「ぬっとあるもの」になるのだ。

著者が自己分析するに、巨大仏の魅力は、周りの空間からブツリと切り離されたときに露呈される巨大仏の即物性、つまり「ぬっとある」ことにこそある。

路上観察学入門 (ちくま文庫)

路上観察学入門 (ちくま文庫)

「人間の動きと意志と感情と経済のすべてを算出して除去したところに取り残されてあらわれてくる物件」としての「トマソン」。巨大仏の「ぬっとあるもの」性はかなりの程度トマソンのそれに近い気がする。「なくていい」とまではさすがにいえないが、そんなにでかくなくていいと思うし。

一方で極小化する「かわいい」マスコットがあり(キティちゃんとか)、他方で極大化する仏がある。建築という文脈に話を絞れば、極大化の波は何も仏に限ったことではない。物語性を持ったマスコットキャラを極大化して建築へ合体させるという試みは、教条化したモダニズムに対するひとつの抵抗軸としてその限りで評価されるべきであるというのは中川理氏が「ディズニーランダゼイション」の本で述べていることである。

偽装するニッポン―公共施設のディズニーランダゼイション

偽装するニッポン―公共施設のディズニーランダゼイション

だけどねぇ、と見返したとき、すっかり参照すべき物語から逸脱しながら、それでも強度を持って圧倒する「マヌケ」さ、これが巨大仏の魅力ではないだろうか。そして邪推するならこの大負けも大負けの巨大仏が、それでもなお圧倒的に建っているというこのしょっぱい勝ち(?)ゲームに、隈氏の勝ち/負けのレトリックを読むヒントがあるような気がする。設定している時代背景は間違いなくこのあたり(バブル期)だし。