犬と鬼-知られざる日本の肖像-

犬と鬼-知られざる日本の肖像-

日本で育った著者の感情的なまでの憤怒が400ページにわたってくりかえされる一冊。日本の制度がどれだけ閉鎖的で縮小再生産しかしないかを嘆き、他方で海外の日本研究者がどれだけそのメカニズムに対して盲目的であるかを批判している。ものさしが西洋メイドであること、たぶんにノスタルジックであることなどやりすぎな感も否めないが、直球なものいいとロジカルな文章、一方的な制度批判にしないようにしようという筆者の誠実さ(?)は見習うべきだとも思う。

なかでも「土建国家」としての日本批判には力が入っており、建設会社と官僚との癒着やら建設費補助に頼らざるを得ない地方の現状などを「建設中毒」とばっさり切っている。適材適所の全く逆をピンポイントで全都道府県に行っているというある意味驚くべき政策は、官の理論に従って開発せざるを得ない地方の存在とともに起こる。「建てなければいい」という論理は「建てないと雇用がまかなえない。何百万人が路頭に迷う」と反論されるし、「開発=豊か」というよくわからないイメージに慣れた世代は生の自然よりコンクリートの方が好きになったという(論証も反証もできないけどなんとなく分からないでもない)ファクターも、この中毒症状の根拠の一つになっていると述べる。

形式的なレベルでただ事実としての「建設」があればそれでいいわけであって、内実はそれほど問われない。だから不必要なものが増えていく。この悪循環の結果として使われない美術館やだれもいない「ふれあい施設」が増えるのである。そんなに仕事が欲しいなら穴掘って金埋めて掘り起こせばいいといったケインズの屁理屈は今なら「管理費がかさむハードウェアはもういらん」という悲鳴を代弁するだろう。投げっぱなしで終わってしまった(そうせざるを得ない?)五年前の本書に対して解決策を見出すとしたらソフトウェアの活用問題をどう現行のメカニズムに組み込むのかが問われなければならない(当たり前だけどこれができていればこの本はこれほど悲観的ではなかったはず)。そのためのカードとして「犯罪不安」の顕在化があるとしたら、それ自体としては疑問だけど「ある程度」その有効性を認めないといけないかも。ただ注意すべき問題としてはセキュリティをハードのレベルに「丸投げ」しようとしないことが挙げられるだろう。もちろんこれで美術館が再興するだろうと単純にはいえないけど、「ふるさと再生」という実体が見えない目的よりも、個々人にとってフィジカルなレベルで存在する問題に対処するほう(ど、動物化?)がまだいいような気がする。ハードとソフトの二元論を内破するような、微妙なラインで解釈していく都市計画が求められるべきではないだろうか。これは個人的な且つ一方的な印象論。これができないから困ってるのだろうけどうまくやっているところもあるわけだから失望ばっかしているわけにもいかない。