公共事業モノ

小説 ザ・ゼネコン (角川文庫)

小説 ザ・ゼネコン (角川文庫)

高校時代から高杉氏の小説を読んで頑張るミドルに萌えていたものであるが(嫌な思い出だ)、なんともストレートなタイトルだ。ダイソーみたいだ。メインバンクの調査役が出資先の中堅ゼネコンへ社長秘書として出向する話。時代設定はバブル崩壊前夜の1980年代。主人公はもちろん好ミドル。出向先の社長が元官僚で時の首相とお友達という設定からすでに絵に描いたようなザ・ゼネコン的ダーティズム満開の予感。公共事業、政治献金、株価操作、談合、メインバンクの座席争い、闇社会、海外ホテル事業への進出、莫迦二世、不埒な社長婦人。これらの逆境にも負けない主人公が格好いいのは言うまでもないが、なんともバブル期な話である。公共事業を巡る政官財の閉鎖的システムと既得権益を死守するためのメカニズムがサクッと分かる本書を読むと、今となってはそんなゼネコンも冬の時代である。高杉小説の登場人物は80年代に曰く「そもそもゼネコンが多すぎる」今や大手も発注件数減少のあおりを受けて生き残りに必死である。

ただ官僚の天下り先というゼネコンの姿はバブル期から変わってない。それがためにメインバンクが債務放棄したり会社更生法を適応したり何とかして潰さないように頑張っているのである。「天下り」には常に「ノウハウの確保」とルビがふられてきたのだが、結局いらない道路やらダムやら港湾やら空港やらを作り続けるための知識なら、いらない。とはいえ事業主体には「いるかいらないか」の判断はできないから仕方ない。というかそもそもそれを決める主体(チェック機関)がいない。なぜなら公共事業の枠組みを決める「全国総合開発計画全総)」は内閣の承認だけで決まるから。と、こうなっている。

ちょっとでいいから道路作るお金をすでにあるハードを巡るもろもろに、社会保障に、使ってほしい。公共事業がなくなると地方の雇用がなくなるというのはもはや神話だし社会保障はシステムさえ整備すればペイするものだろう。いらないハコモノを作れるゼネコンへの補助よりも大きな建設を受けきれない中小建設企業のために「実際に人が集ってる場所」の整備をコツコツと且つ迅速に発注したほうがいい。そして全総という大枠より個別具体的な地方自治レベルでの変革を重視すべきである。あらゆる地域に普遍的に適応可能なプランなんてもうない。前例を作りながら少しずつ変わっていくことが大事だと思う。


そうそう、高杉小説はしっかりとした取材が一つの魅力を形作っている。そのなかでも見所は某超有名建築家と某知事による某庁舎を巡る癒着のところ。一応全部仮名を使っているのだがどう考えても分かる。初期のファミスタレベル。某婦人まで登場して面白かった。