カーン

改正基準法はさておき、ルイス・カーンのこと。

ルイス・カーン建築論集 (SDライブラリー)

ルイス・カーン建築論集 (SDライブラリー)

晦渋だ、難解だ、といわれるカーンの言葉がどんなものだろうかと実際に読んでみるのだがやっぱり難しい。自然哲学みたい。そんな難解さに引かれてカーンを崇め奉る風習があったのだとしたら、息子が撮った『マイ・アーキテクト』という(暴露)映画もただスキャンダラスなだけの試みじゃなかったと言えるかもしれない。
ともあれ、カーンの言葉が分からないとしては1)彼が反時代的であること2)平易な言葉に込められた意味が独特であること3)彼が教師であること、おおよそこの3点が挙げられると思う。1940年代、40歳を過ぎて彼は教師になり、建築家として活躍するわけだが、モダニズムポストモダンという時代の流れから身を引き、モダニズムとは別のアプローチで「建築とは」と問うた。確かに彼はモダニズムの「言語」を使用してはいた。しかし「プログラム外の言語化不能なもの」に対する志向性によって、カーンはモダニズムで割り切れない奇妙な建築家と映るのである。つまり建築そのものに対する姿勢あるいは問いかけ方の上ではモダニズムから最も遠いところにいたのである。
ルイス・カーンとはだれか

ルイス・カーンとはだれか

カーンに師事した香山氏の著作からは60年代のペンシルヴェニア大における彼の授業風景が垣間見えて貴重である(ちなみに当時の同僚にはヴェンチューリバックミンスター・フラーという錚々たるメンツがそろっていたらしい。生唾ものだ)。香山さんのカーン愛をかみしめながら読んだ。
ところで、論文集に収められた各論文を断片的に眺めているだけでは「カーンの文脈」は見えてこない。「彼は建築家である前に教師であった」と述懐する香山氏は、同書においてカーンの言葉「オーダー」「フォーム」「ルーム」「沈黙」「光」が自分にとってどう響いたのかを記す。個人的な意見としては、金言として語られるカーンの言葉は実はまだ自問の中にあって、暫定的に答えられたその問の中にわれわれも巻き込まれているのではないかと思っている。ありがたがってるヒマなんて無いぞ、と。
ルイス・カーンの空間構成―アクソメで読む20世紀の建築家たち

ルイス・カーンの空間構成―アクソメで読む20世紀の建築家たち

こうした思索的なレベルをいったん保留して、徹底的に空間構成のレベルからカーンを見てみるという原田氏の試みは神格化されがちなカーンを冷静に見直す契機になる。ミース、コルブといった同時代人(一回りくらいカーンのが下だが)との比較によって、実は初期のカーンの手法は彼らのものと結構近かったことがわかる。中期、後期へと進むにつれ、彼の方法論は少しずつ同時代人のものから離れていく。この変化のフェーズがちょっとスパッとしすぎているというのが難といえば難だろうか。