「51C」を超える

脱マドリズム

「51C」家族を容れるハコの戦後と現在

「51C」家族を容れるハコの戦後と現在

以前紹介した上野千鶴子氏の書籍に感化された山本喜美恵氏がプロデューサーとなり、戦後住宅史を再考するシンポジウムが開かれた。VIPとしてはやっぱり「nLDK」の原型となった「51C」を考察した鈴木成文(しげぶみ)氏。御歳80にしていまだ舌鋒鋭いまま。且つ老獪(こわいなぁ)。そして他の参加者としてはこちらも先日エントリを挙げて紹介した山本理顕氏、それからある意味震源地である上野千鶴子氏。この三者の前口上がシンポの様子に先立って三章分割かれている。司会は五十嵐太郎氏と布野修平氏。あとフロアにはさりげなく内田雄造氏、林昌二氏といった面々が。

戦後住宅難の中で取られた住宅供給の方途はおおよそ二つに分けられる。ひとつは池辺陽、増沢洵らによる「最小限」の戸建住居。そしてもうひとつが集合住宅であり、後者を取った鈴木らによって1951年に提出された間取りプラン「51A」「51B」「51C」のひとつが、ここで述べている「51C」である。そして「51C」のプランは「nLDK」へと発展し、半世紀たったいまでもわれわれの住宅観を支配している。この呪縛をどう断ち切るか。

これがシンポの前提である。ただ鈴木氏によれば、これは「誤り」である。「51C」と「nLDK」とは全く関係がない。住居内での動線を考え、何を単位とし、その各単位をどうつないでいくのかに賭けた「51C」と、とりあえず「売れる」からどんどん個室を増やしていくというその後の商業ベースで発展していく「nLDK」とは全くの別物であるとのこと。

ただ、この「51C」の真の功罪は「住宅を内側のプランの問題として処理することができる」ことを示した点にある。これを「マドリズム」と呼んでみたい。フロアからもあったように、「51C」と「nLDK」とには社会性/商業性という大きな違いがあったかもしれないが、論理的に突き詰めていけば結局「nLDK」へとたどり着いただろうと思う。機能を分割し、そのオーヴァーラップの仕方で勝負する、というときの最初の「舵取り」自体が多大なる影響を持たざるを得なかったということだろう。