森博嗣の建築

アンチ・ハウス

アンチ・ハウス

学生時代を建築に充て、現在は流動体コンクリート研究と言う形で建築に携わる(りつつ小説を書く)筆者が、かつての先輩である建築家とともに自らのガレージを作っていく顛末を記した一冊。ちなみにガレージだから「アンチ・ハウス」というわけではない。現代の住居に暗黙のうちに強制される「合理性」だとか「住みやすさ」だとかを批判しながら、むしろ「住みたい」家をつくってみようと主張する。

そしてこの本の面白さは中途で起こる様々なハプニングにある。「多次元立体」を専門にする言ってみれば濃くマニアな建築家との共同作業自体がまずハプニングではあるが、それ以外にも意味の無い風致地区規制(木を植えろ)との格闘や予算との格闘などなど、施主の夢がみるみる現実的な側面に規制されていく様子がまざまざと見せ付けられる。

猫の建築家

猫の建築家

一方こちらは猫の建築家を描いた絵本。佐久間氏の味のある絵が印象深い一冊。「美」の理由をシンプルな言葉で問いてくる。

こんなに静かにものが取り残されている、
いつまでも存在し続けていること自体が、
「美」の理由がある、という証拠ではないだろうか。

森氏にとって、建築における「美」はきわめて曖昧としたものだが、存在すべきものとしてある(はず)。近代という時期を境に建築における「美」が「機能」や「技術」によって取って代わられる(というのが言いすぎだとしたら重心が変わる、とか)と個人的に認識している。要するにその代替項の定量的に処理しうる科学性ゆえに「ウケ」たとされているわけだが、それでもなお「割り切れない何か」が建築にはまとわりつくことになっている。ミースのデティールや素材に対する執念(フェティッシュ)なんかもそれ。この亡霊的にまとわりつく「割り切れない何か」が「美」と呼ばれうるのではないかと個人的には思っている。

そして機能主義は廃れたとされているけど、それでもなお合理性を目指した画一的な住居しかつくられていないのならば、むしろ「美」という割り切れないものを信じて建築したほうが面白いじゃないか、と森氏は言っているように思われる。当然、代替概念としての「機能」や「技術」が実はイデオロギー的操作のツールとなっていたことは確かであって、そのあたりをナイーヴに処理してしまうことには批判があるとおもう。でもこれは僕の読み取りの恣意性に咎があるわけで森氏は悪くない。あしからず。ただこういうことをすっきり言ってくれるとちょっと胸がすっきりするというのもまた事実であったりするのだ。