メタボリズム

行動建築論―メタボリズムの美学 (1979年)

行動建築論―メタボリズムの美学 (1979年)

初版1967年。黒川氏33歳。下の写真は当時の氏だが、裏表紙の折り返しのポートレートでこんなに「ガンをくれて」いる(「メンチを切って」いる)例を他に知らない。「パンほども売れた」ポスト戦後建築のマニフェストである。この眼力に用があって読んだ。

メタボリズム」にまつわる大著をものした八束氏による書評が『建築の書物/都市の書物』にあるので詳しくはそちらを読まれたい。戦後の右/左翼的政治バランスというしがらみから抜け出た時期の動向を、国際派としてCIAM等のミーティングに参加する黒川氏の体験談などを通して本書から読み取ることができる。こうした同時代的な状況描写も本書の魅力のひとつである。
READINGS〈1〉建築の書物・都市の書物 (10+1 Series)

READINGS〈1〉建築の書物・都市の書物 (10+1 Series)

メタボリズム」とはつまり「とりかえ可能性」に賭けたムーヴメントであったなどという拙い理解でやりすごしてきたわけだが、結局これは「主たる空間」と「従たる空間」との分割がまずはじめにあると考えたほうがよさそうだ。不動産として流通する建物の構成要素を見てみるとその耐久年数には著しい差異がある。そして短期の耐久年数で多様な変化に晒される水周りや設備等を「従たる空間」としてとりかえ可能にするというロジックである。この背景にはカーンによる「サーヴド/サーヴァント・スペース」という概念があるだろう。ただこの概念のみによってカーンを理解しようとすると、彼の全体を把握しそこなう

こうした「主/従の空間」という二項から「メタボリズム」を考えると、黒川氏が都市へと焦点を当てる際に繰り返し道路を語る理由がなんとなくわかる。つまり道路は輸送の用に供されるのみならず、そこで生活が営まれ、ひとつのコモン・スペースとしての役割を残すべきであるし、なによりも「メタボリズム」つまり「新陳代謝」を可能とするひとつの形式(枠組み)を与えるものであるからだ。そういう意味では黒川氏の都市論における「道路」とはメタのレベルにあるといえないだろうか。

つまりこういうことか。多層的に様々なネットワークが存在する(セミラティス?)都市のなかに各々がオーヴァーラップする「節」を見つけ、「漢方」のようにそこへ点で刺激を与えることで都市全体へとその効果を波及させていく。こうした黒川氏の都市論をも鑑みると、「主/従」は棚に上げても「道路の網羅性」を完備することによって、刺激を受けた「節」からの影響をうまく全体へと拡散させることができると考えていたのではないか。都市はツリーではなく複数のツリーの重なりあいによるセミラティスではあるが、その中でも意味をかえるだけで物理的には不変である要素があるわけで、その最たるものが道路であると黒川氏は考えていたように思われる。

現在の「光ファイバー」などネット・インフラのあり方。そして「主/従」という二項の精査。それからおそらくこれが一番大事だと思うのだが、「とりかえ」る主体は誰なのか、ということ。こんなことを読みながら思ったのであった。課題。