長谷工コンペ

長谷工創業70周年記念「住まいのデザインコンペティション」が開かれます。テーマは「300人のための集合住宅」。審査員は隈研吾乾久美子藤本壮介、で長谷工から大栗さんという方の四名。締め切りは11月9日。ちなみにテーマの「300人」は「300万人」の誤植ではありません。ありませんが、このテーマを見た瞬間にああ、コルビュジエ、と思われるでしょう。学生向けだから規模を小さくしたそうですが、これは何かそれなりに関連付けたほうがいいのでしょうか。

1920年代あたりからの集合住宅や高層ビル(アメリカだともっとはやいけど)は、土地を積層させて容積を上げるというところにまず革新性があったはず。集合住宅に人口を寄せることで密度を局所的に上げて、周囲に緑の溢れる都市をつくるというのが驚くほどざっくりとした「300万人の都市計画」概要だったと思っている。ただこうした環境の作り方が形骸化して、あらかじめ都市とか家とか集合住宅とかが所与のものとして前提とされてしまっている。これでは面白くない、と藤本氏はテーマ座談会で語る。確かに僕もそう思う。かといってリアリティの全く無い、密度もスッカスカの、ペイできないプランでもダメなのである、と乾氏は語る。まったく賛成である。藤本氏が強調するように「ある密度で集合して住む」ということの意味を問い直させるようなプランが求められているのである。

なんかこうもり野郎のようになってきたので自分の意見を言うと、そもそも家族で住むということを前提としないほうがいいように思う。まあ現実的にはそうなるとしても、その「家族縛り」が幻想としてのリビング、ダイニング、nLDKを生み出してきたきらいはたぶんにあるのではないだろうか。だから「300人のホームレスのための集合住宅」とか、「300人の老人のための集合住宅」(老人ホームか)とか、今までの前提を一度洗い落としてみてもいいだろう。まあホームレスのための集合住宅はペイしないと思うけど。こうした前提を忘れて、都市と集合住宅がどうつながり、上の階と下の階がどうつながるのか、ということを考えていったほうがいいかも。

あとは場所性を生み出すような集合住宅が求められるだろう。集合住宅は間違いなく場所性を生み出すことができる。僕自身三宮の近くに住んでいたとき電車の中から見た、ニョキニョキと巨木が生長したような錆びた銅みたいな色をした不思議な集合住宅の印象がいまだに忘れられない。そういうどうしても視線を向けてしまうような求心性のある集合住宅を一回考えてみたいものです。