「物々しい建築へ」について

先日の「アーキサミット」で面白いテーマを掲げる二人組がいました。
彼らの宣言は「物々しい建築へ」。時間の都合上途中で切れちゃってたんですが、発表者の方々がエントリを挙げてくださってます。

昨今、建物を貫くプログラムや論理がストレートに伝わるような「抽象的な空間」(プログラム表現主義?) がもてはやされていますが、そういう気持ちで構成された空間がチープに感じられるときもある。だから彼らはその「構成要素」の側を問題にするわけです。ここで問われているのは「モノ」ですが、これはその中で起こる「こと」と無関係ではありません。だから「物質性(マテリアリティ)」云々というだけの話ではない(と理解したのですが・・・)。
DESIGN HUBさんから引用

ここで言う「物々しい」とは、一言で言えば「建築を構成する各要素が空間の質に影響を与えるほどの存在感を持ってデザインされたもの」を指します。

僕もこのテーマには賛同します。ですが、だからこそ気になることがあるのです。

1、誰に向かっての宣言か
2、「物々しさ」をどう他者と共有するか、そしてその必要性
3、「物々しさ」をどうやって目指すことができるか

1、まずは誰に向かっての宣言か、ということ。作り手?評価者?ユーザー?世間一般の風潮として「物々しい建物ナイスだよね」という雰囲気を作りたいというレベルなのか、それとも「物々しい建築を作るにはどうすべきか」というプロセスまで問題にするような宣言なのか、ということ。「〜へ」とあると、どうしても後者の側までを想定してしまいます。で、これ以降は「3」でくわしく。

2、それから「物々しさ」をどう他者と共有するか、ということ。これは「私の思う美」が必ずしも他者と共有できないことと似ています。まあこれは「アンチ・プログラム表現主義」という大まかなくくりで姿勢のみを問題視する分にはさほど厳密にする必要はないでしょう。「物々しさとは」みたいなリストを作るっていうのもちょっと違うし、そもそも不可能だと思います。

3、そして一番気になるのが「物々しさ」をどうやって目指すことができるか、ということ。例えば手すりの厚みやかたち、外壁の素材選択、そしてそれらの空間的プロポーションなどなどは、あくまでもいくつかあるバリエーションの中からひとつを決定しなくてはなりません。そして決断したその選択肢が「物々しさ」を帯びているかどうかを事前に担保するためのシステムをどうつくっていくのか、ということです。そしてそれはそもそも可能なのか、ということ。ちなみに素材決定について僕が藤村さんに尋ねたのは、その決定が建築家の中でどういうプライオリティのもとにあるのかが気になったことと、その「決定要因」にどんなバリエーションがあるのか気になったからです。

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さてさて、ダラダラした箇条書きにしてきましたが、個人的に最も強い思いとしては「物々しいか否か」とはあくまでも事後的に判断されるものなのではないかということです。結果的に「構成要素中心主義」とは現時点ですでに存在している建物を判断するための基準のひとつでしかなく、これを事前に設計へ生かすことが難しいのではないか、ということ。でもこれが「プログラム表現主義」に終わらないでね、という姿勢を問うことだけを意図した宣言だったら話は変わります。もしそうなら、それほどの厳密さは必要じゃない。でも、もしそうならば個人的にはもちょっと掘り下げたい気持ちにもなります。

もうちょっと話したいこともありますが、とりあえず今回のエントリはここまで。続編はまたそのうち。理解がはなはだしく間違ってなければいいのですが。