KEN-Vi建築セミナー「美術と建築の対話」

6月28日29日の土曜日曜は兵庫県立美術館にてKEN-Vi建築セミナー。28日の土曜日はアーキフォーラムにて小嶋一浩さんが、そして大阪工業大学では中村拓志さんがそれぞれ講演会をされていたらしい。分けて欲しかったと切に思う。
プログラムはこんなところ

28日(13:00〜17:00)

  • 内藤廣さん「美術と建築の不健全な関係について」
  • 西沢立衛さん「建築設計の側から美術と建築との関係を考える」
  • お二人+古山正雄さんの座談会

29日(13:30〜16:00)

  • 「美術と建築の対話」安藤忠雄さんと三宅一生さんとの対談
  • 軽めのファッションショー

内藤さんの講演は後述。西沢さんのはスライドショーだった。29日は説教部屋。
ちなみに前回は喫煙所で妹島さんとお会いしていたのだけれど、今回は内藤さんとお会いできた。足がくがくさせつつちょっとお話。全体を通して講演自体がとりわけ面白かったのは当の内藤さんだった。「美術と建築の不健全な関係について」というテーマのお話は最近アートと建築とがよりそってきている、という古山さんの前口上に水を浴びせるような内容。28日の内藤さんは要所要所でこうしたスパイシーな立ち回り方をされていた。
というわけで今回は内藤さんのレポ。
では具体的に内藤さんの講演を
主なテーマはこう要約できるか

美術と美術館とは関係ない。建築(美術館)とは社会制度であり、その限りで芸術が批評すべきものの一部でしかない。

「美術館の壁を目指し始めた」最近のアートを批判するようなかたちで氏の講演がはじまった。「美術館なんてお祭りの見世物小屋みたいなものじゃないの。あの、ヘビ女とかさ」という旨の導入を県立美術館でしてしまう明快ぶりは潔かった。「美術ってのはそのヘビ女みたいなもの」と続く。一方で100年前の岡倉天心による「せめて美術品を収蔵するところくらいはつくってくれ」という懇願を引きつつ、美術館は倉庫みたいなもので十分、だから最近の収蔵品を持たない美術館には疑問があるというお話は氏の建築観そのものに触れるような気がして興味深かった。
求められる建築とドナルド・ジャッド
最終的な着地点は「求められる建築を目指す」ということについてだったと記憶している。建物なんてどうでもいい、という発言は、逆に言えば建物なんて使い方いかん、ということを暗に示している。これは「自分の持っているものを自分がどう見せたいかに従って見せる」という氏の望まれる美術館像とのつながりの中にあって結構明快なビジョンになってくるように思う。具体的に名前が出てきたわけではないけど、ああ、ドナルド・ジャッドだ。と、テキサスの荒野で自分の作品を収蔵するためだけに軍用キャンプ(だったかな?)を美術館に改装した例の男に思いをはせた。ジャッドについては著書『建築』レビューもかねて今度エントリを挙げてみたい。
秘めやかなる芸術と建築との逢瀬
閑話休題。もちろん芸術もまたひとつの制度「アートワールド」を持っている限りで、氏の「芸術=純粋なる批評的狂気」というビジョンでもって建築なる社会的欺瞞を撃つという構図にはやや疑問もある。美術館に収蔵されるためにはやはりなにがしかの「審査」が必要とされるからだ。個別の芸術にそれを超えろと言うならば、建築の芸術化もまた可能だろう。多分そのあたりも氏は意識していたのだろう。「建築と芸術との逢瀬は秘めやかにこっそりと」という発言は、個人的には氏の講演中もっともグッと来たところだった。
おまけ Issey Miyake A-POC INSIDE
そうそう、29日の三宅一生さんと安藤忠雄さんとの対談の最後に、とある映像が流された。佐藤雅彦さんによるA-POCのプロモーション「ISSEY MIYAKE A-POC INSIDE」だったと思う。これがあまりにもよすぎた。

モーションキャプチャーのドットに「ISSEY MIYAKE」の文字を使った映像はシンプルなのにきわめて豊穣なイメージを喚起するし、前傾姿勢のドラムンな音楽とのマッチングが絶妙すぎる。なるべくなら大音量で、そして大画面で観たいところ。