とものうら3

これまでさらっと概観してきた鞆の浦埋め立て架橋は今年6月に認可も下り、いよいよ実現される見込みが高くなってきている。個人的には強く反対。

  • 反対する理由としては

おおよそ以下の3つ

  1. 「人間工学的」な「最適化」が無批判的な建設行為を正当化しているように見えるから
  2. ソフト面の対策をとらずハード面にこだわりすぎているから
  3. 景観保存未満の擬似保存行為を「保存」の名の下に行わせたくないから
  • まず1について

以前少し書いたような「人間工学的」な「最適化」が埋め立て架橋の合理性や、代替案とされた山岳トンネル案との競り合いを正当化するものとして掲げられているような構図に気持ちの悪さを感じる。具体的にここで言う「人間工学的」な「最適化」とは、「地元住民」や「観光客」の「快適性」と「安全性」だと言えるだろう。こうした「住民の声」も母数自体が少ないためどこまで信憑性があるかは不明。とりあえずこれをリターンだと考えるならば、ここでのコストは「世界的にも他に例を見ない石造りの港」である。ここがなくなればもう二度と見えなくなる、ということを考えるととても適当な取引とは言いづらい。ライフラインを何とかするためにやむを得ず、というならまだしも「期待される整備効果」はあくまで「快適性」や「安全性」の程度だと思われる。

緊急車両が通れないほど中心地の道が狭いとはいえ、問題発覚の20年前から急患を見殺しにしてきたわけではないだろう。母数の少ない不透明な声を「住民の総意」とし、緊急車両の交通という「セキュリティ」面を掲げれば反論はきわめて困難になる。でも重要なのは代償と見返りのバランス感覚であり、それを無下に切捨ててしまうようなPC的言説には疑問を持つべきではないだろうか。

  • そして2へ

個人的には、埋め立て架橋か山岳トンネルかを選ぶならば、景観にさほど影響のないとされているトンネル案で十分だと思う。トンネル案が避けられる原因となった中心部の交通問題は必ずしもハード面のみで解決できるものでもないし、されるべきでもない。道路を整備すれば・・・市民ホールを作れば・・・という典型的な80's以降のハコモノ気質はただの幻想でしかない(当計画の発案時期はやっぱり1983年)。鞆の浦には50億の予算と「ここにしかない売り」がある(まあお金はすでに建設業者に渡ったという噂もあるが)。こうした資産をマネジメントしてソフト面から改善するほうが鞆の浦という地域と、その代謝にとっては良好なやり方に思える。

仮に石造りの港を埋め立てるとしたら、その工事期間の何年間は工事車両が幹線道路を占拠して今よりひどい交通状態になることは容易に想像がつく(ちなみにこの懸案はウェブサイトに記載なし)。その結果アクセスしやすい観光名所にしたところで、そんな鞆の浦の「よさ」を享受できる人は100年後には地球上に存在しなくなるだろう。
和歌浦がいい例だ

古くより景勝の地と知られ、『万葉集』にも詠まれた名所であるが、著しく地形が変わったため、往事の面影はさほど見られない。一部は瀬戸内海国立公園に属する。

Wikipedia和歌浦」からの引用。なんというか黙示録的に読めてしまう。

  • 最後に3のこと

僕が最後までわからなかったのは、鞆の浦を埋め立て架橋して幹線道路をつなげ駐車場を整備すれば観光客もハッピーだろう、と市は本気で思っている節があるということだ。ここでちょっと整理。石造りの港の「要素」としては(たとえば石造りの雁木のみとか)他の地域でも見られる。鞆の浦の特色は石造りの港全体がほとんど残っている、というところにある。つまり鞆の浦に「歴史的価値」なるものがあるとしたら、それは残っているそれぞれの港を構成するモノにあるのではなく、万葉集の時代の人も同じものを見ていたかもしれない「景観」や「風景」、「風情」のほうにある。だから「コレとコレとコレが残ってれば保存オッケー」とかそういう話ではない。鞆の浦は先人の時代から少しずつ変化している、ということを引き合いに出して今回の埋め立て架橋を正当化する言説もある。事実「景観」のアイデンティティは見えづらいからこうした言説は一定の説得力を持つだろう。でもそのせいで今鞆の浦「から」見えるちょっとみすぼらしいけど愛すべき風景は脅かされている。きわめて主観的な意見だけど、こうした中途半端な「保存」を例として残したくはないのである。

観光客のために港を埋め立てて駐車場をつくったとしても、そのときその駐車場は本当に観光バスや観光客の乗用車で溢れているだろうか。もう遅いかもしれないが、ハコモノ幻想から目を覚まして関係者にはぜひ見直してもらいたい。
参照