竹原市町並み保存センター

とものうらにある喫茶店のマスターが薦めてくれた街、竹原へ行ってきたときのこと。
なにやら古そうな町並み、というよりも古いまま時計が止まっているような魅力的な町並み(他じゃ見えないし)のなかに、ぽつねんとモダーンな建物が置かれていた。カーンを思わせる配置や開口といわく言いがたい経年変化にずるりと引き込まれ、その日はもう暗くなっていたので結局中に入れないままだったのだけど、やはり気になっていたので帰ってきて調べてみると、どうやらこの建物は「水谷頴介+都市・計画・設計研究所」によるものであることがわかった。
でもその前に、かの地竹原について。

新港橋から北のほうをのぞむ(マーカーのあるところ)。桃山時代あたりにこの辺を港にして交易をはじめたらしいです。

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それから1650年に西側の入り浜を塩田化することに成功(青っぽいところ)。市街に接近してかなり広大な塩田がつくられたようです、が正確な範囲はわからず(詳しい人教えてください)。「塩町」というのはその名残でしょう。

メインストリートの様子。下の地図でラインを引いたところがそれ。電柱が埋められています。こうした電柱の埋設、看板規制などは町づくりのためのリサーチ結果を踏まえてのもの。ちなみに竹原の町並み調査は以下の3チームによって繰り返し行われたそうです。

計画段階までさかのぼると国土庁(国交省じゃないですよ)の「伝統的文化都市環境保存地区整備事業」という課題からスタートしているらしい。計画づくりは広島県庁が担当。町並み調査と市民運動による都市イメージとをバランスしながら計画がたてられます。水谷頴介氏の研究所はプロジェクトの一環として「町並み保存センター」の設計を委託された、とばかり思っておりましたが、さにあらず。町づくり自体にかなりコミットされていたらしい。具体的には駅前広場の整備、景観道路の形成、主要道路の舗装改修、電柱撤去などなど、そしてそのひとつとして保存センターの設計があります。

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ところで、竹原の面白いところは塩田が1960年くらいまで存続していたため、こんなことが起こったことだ。

  1. 戦後の都市改造が遅れた
  2. 塩田跡地に新しい市街が形成されたので古い街の都市構造が残った

で、具体的にその都市構造というのは

このように、家並みを緩く曲がる幹線道路に沿って展開させ、端部で道を直角に折り曲げ、町はずれに惣持ちの堂宇を設ける形式は、近世初期の西日本の小都市の基本的な空間構成だった。(鈴木充「都市空間の歴史と発展」『新建築』1982年11月号)

塩田の存在が都市の近代化を遅らせ、しかも塩田跡地という「新たな街」の形成にとってうってつけの敷地が広大に広がっていたという偶然が、こうした近世の町並みを今に残すこととなっている点に、竹原の特徴があるのではないでしょうか。

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さて、では水谷頴介氏の研究所による「竹原市町並み保存センター」の写真をどうぞ。

場所はここ

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ほどよい存在感で街になじんでおります。

保存センターの東に位置する西方寺から。山の稜線と屋根並みが呼応して綺麗。この町は電柱埋めて本当に正解だと思います。

ちなみにこの建物、3つのヴォリュームからなっております。写真に写っているのが一番東側にあるヴォリューム。1階が学習室、2階が小ホールであります。

道路に面するヴォリューム(1階が展示室等、2階が古文書収蔵庫)のファサード

奥に見えるのが、事務所や研究室の入っているヴォリューム。他の2つの棟をコネクトする役割も。

木、モルタル、レンガの色調がぴったり合ってシックな趣。ちなみに木材は瀬戸内路の間伐材(心持ちの小径木)で、黒レンガは地元でつくられた普通レンガをもう一度釜に入れて還元いぶしたものだそう。おかげで鉄筋コンクリート造ではあるものの、比較的混構造的なニュアンスが出ております。ちなみに水谷氏が町づくり自体にもコミットされていたことは先に述べたとおりですが、黒レンガは建物のみならず、道路の舗装用材としても使用されております。

このとおり

竹原市町並み保存センター
設計:水谷頴介+都市・計画・設計研究所
協力:岡田祐一郎
構造:山村建築計画・構造設計事務所
設備:川崎設備工業
施工:三好組
工期:1981年11月〜1982年4月

偏ったアングルばかりでごめんなさい。他の写真はほとんどボケてました。

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おまけ

モダーンなビル。町屋しか知らなかったご近所さんたちの度肝をさぞかし抜ききったのではないだろうか。

単純にどう持っているのか気になる家。2階のこと。