ジョルダン・サンド氏講演会
11月30日は同志社にてジョルダン・サンド氏の講演会。タイトルは「視覚文化としての〈文化住宅〉」。サンド氏はジョージタウン大学東アジア言語・文化学部の准教授で近代日本の都市・建築・マテリアルカルチャーをご専門とされている。ただその具体的事例を見てみると、今回の文化住宅のみならず百貨店の家具、ちゃぶ台等等から調味料まで、とにかく研究の幅が広い。
- 作者: Jordan Sand
- 出版社/メーカー: Harvard University Asia Center
- 発売日: 2004/03/15
- メディア: ハードカバー
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文化住宅とは何ぞや
今回の講演タイトルを聞いてまず思うことはやはり文化住宅とは何ぞや、ということ。なんだその「文化」とは、と。時代をちょっとさかのぼってみると、文化住宅の歴史は1922年上野で開かれた「平和記念東京博覧会」における展示企画としての「文化村」にはじまる。ここで建てられた洋風生活を取り入れた住宅のことを「文化住宅」という、ことになっている。なお1920年代に現れた「文化」ブームを背景とする「文化住宅」現象は、今まで下のようなニュアンスにおいて語られてきた。
- 大正文化史:新中間層の台頭や郊外発展と関連して
- 建築史分野:家庭生活の近代化に伴った、住宅平面の改良過程という文脈で
ただ、ここでは文化住宅そのもの、その描写、あるいはそれを紹介する出版物の存在が抜けている。サンド氏が言うように、この現象は一つの「ブーム」であり、「文化住宅」そのものの定義はなかなか難しいものがある。タームとしてあげるならば
- 郊外
- 安価(あくまで相対的)
- 合理的
- 居間中心型
となるだろうか。ちなみに発注者として「教師、画家、医者」と「開発主(ディベロッパー?)」という区分が存在していることも見逃せない(この辺のお話はその後の中川先生によるコメンタリープレゼンで見ていった、が、長くなるので今日は割愛)。サンド氏の講演はこうした「文化住宅」を取りまく要素の中でも、都市郊外住宅の宣伝の仕方から建築教育のあり方等をそこから透かし見る「メディアとしての文化住宅」という側面を補足していくような試みだった。
以下内容をちょっと紹介
「平和記念東京博覧会」の一幕を当時のある雑誌が挿絵にしているのだが、入場者は住宅内部に入ることを禁じられていた。いわばこの住宅は外側から眺めるものとしてあったのである。いままでの建主-大工、この直接的な関係に割り込んだのが建築家であり、彼らによって「文化住宅」は設計された。それまでの建物は「雛形本」といういわばディテール集を大工が応用することでなりたっていた。つまり大正時代までの建築には全体像というものが存在していなかったといっても言い過ぎではなく、建築家の介入によってそれが獲得されるようになったのである。ここには警察への図面提出を義務付ける法規制のはじまりもファクターとして絡んでくる。
文化住宅はそんな建築家のなかでも、大学エリートではない、専門学校を出て建築学会の準会員になっているような「若き非エリート」によっておしすすめられてきたようだ。彼らにとっての「情報源」は、当時のモダニズム建築を紹介する「新建築」等とは異なる海外の「建築写真類集」だった。この本は一枚一枚はがせる絵葉書のようになっている。お気に入りの一枚を参考にしながら、伝統的なスタディーをせず、「奇をてらったものを作りたがる」彼らの出版物は芸術的表現を使用し、「欲望の表象」としての一点透視図法によって「文化住宅」を表象したのであった。
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「住宅の花形」として文化住宅を考えてみると、その座は戦後「団地」に引き継がれていく。今でこそネガティブなイメージを付与されやすい「団地」ではあるが、当時この新たな生活様態は羨望の的であった、らしい。詳細は以下の文献を(参照)。
ユカ坐・イス坐―起居様式にみる日本住宅のインテリア史 (住まい学大系)
- 作者: 沢田知子
- 出版社/メーカー: 住まいの図書館出版局
- 発売日: 1995/04
- メディア: 単行本
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この二者にはどんな関連性があるのだろうか、という質問をしたところ、文化住宅の持っていた住宅改良的性格(合理性とか)が変形したものとして団地があったのではないか、というコメントをいただけた。これに関してすぐに返答ができなかったけど、結構面白い観点なんじゃないだろうかと思う。