京都御所

いよいよあと2、3日に迫ったhanareさん3周年パーティーのために会場構成をお手伝いしている。その一環としてインタビューをしたり、文章の編集をしている。そして今この瞬間には印刷をしている。ちなみにこれらの文章には一ミリの飛躍もない。会場構成のためにインタビューをして、文章を作り、構成に携わって、印刷をしているということである。意味が分からない方はぜひ会場に来てください。ただ、ありがたいことに、すでに会場のキャパ2倍分の予約があるそうだ。ということであまり強くはおすすめしない。

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昨日「京都御所を知る夕べ」を聞きにいった。御所の隣にあるホールの、キャパシティ400席の約7割が埋まり、その内の9割半は高齢者だった。はじめは御所の写真をスライドショーで見て、その後専門家の人が御所の歴史を淡々と語るのを聞くという段取り。
平安時代、政治機関やら行事を行う場所やら天皇の私的領域やらを一カ所に集中させる大内裏というシステムがあったそうなのだが、その時代を通して約16回の火事があり、その度に建て替えがあったらしい。焼けては建て替え、その最中は里内裏を天皇の在所として代用していた。ところが鎌倉時代へ移るにつれ、院政の台頭、そして官吏の役を氏が引き継ぐようになったこと(陰陽師安倍氏とか)によって大内裏そのものが廃れていった。わざわざ中央に出て行くニーズがなくなったのだ。そしてこのあとに鎌倉時代の内裏「ツチミカドヒガシノトーイン殿」がくる。今の御所の元になったものだ。
上には2つ、大内裏が廃れた理由を書いた。聞いたまま(ニュアンスで)書いた。ただ大内裏から里内裏へ、と流れで書いたものの、行政機関としての役割はその時どうあったのだろうか。鎌倉時代後醍醐天皇大内裏を復活させようとしたようなのだが、大顰蹙を買ったらしい。顰蹙を買うなんてよっぽどのことだ。その後もちょくちょく大内裏を復活させようとしては顰蹙を買う天皇が出現していたりする。それよりも実は技術革新による情報速度の向上によって距離が著しく近くなっていたのだった、それが大内裏を廃れさせたのだったというような話だったらどうだろうか。氏に伝承された官吏が散在する様はネットワークみたいではないか。でももちろんこれはあくまでも個人的な想像だ。
そうそう、それよりも平安時代に16回も内裏が火事で焼けたという事実にまずびっくりした。なんでそんなに燃えるんだろう。