ハイパービルディングクリエイター
千メートルの規模になるとビルはビルではなく「都市」になる、とある*1。
千メートルビルを建てる―超々高層のハードとソフト (講談社選書メチエ)
- 作者: 尾島俊雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1997/11
- メディア: 単行本
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
この本で書かれていること。現在の都市が抱える問題を指摘し、その解決のために千メートルビルという超々高層建築の建設が提案され、それがどのようにそれらの問題を解決するのか、そして想定される反論を他国の高層建築事例を通しながら吟味し、その実現のためにはどのようなことがなされるべきであるのか、など。ところで、先に挙げた都市の問題点とはなにか?まずそれを挙げる。挙げるだけだが。
- 都市の過密問題:人が集まりすぎる
- 都市の職住問題:職住空間が分離して人口に偏りがでてくる
- 都市の環境問題:スクラップ&ビルドのスパンが短すぎる
ひとつ指摘しておくべきは、これらの問題が他ならぬ建設(開発)によってもたらされたということだ。「住んでいるというのでは生産効率があまりにも低すぎ、商業用地やオフィスにでもしないとだめだ」という指摘はなかなか興味深かったりするので、気になるむきは読んでもらいたいと思う。
-
この計画を通して、二つのモデルをすかし見た。すかしただけだ。ひとつはコールハースの「ビッグネス」。それからコルビュジエの「300万人の現代都市」。
いろいろ読み取り方があるだろう前者だが、建築物はある規模を越えると主体的に操作できなくなる。そこでは建築家という存在が機能不全になり、コンテクストなんか問題じゃなくなるのだ、というのがビッグネス。著者がいうところのある規模を越えるとビルが「都市」になる、という提言はそういうことを述べている。でも著者はそれでもなお主体的に操作しようとする1500人もの集団を「建築家」として位置づけているし、その内部の動き方をシコシコ描いていたりする。都市というコントロール不能なものに、よりコントロール可能な都市的なるものをぶつけようとするわけだ。
それからコルブの「300万人の現代都市」。超々高層ビルによって地上を開放し、空いたスペースに緑を植えよ、という。ただこれは別のプロジェクトかもしれないが、コルブが高いビルを建てるときには政治的な攻撃対象とならないように複数の国で管理運営する、ということを言っていたことを考えると興味深い。もちろん時期的地域的な背景を割り引いても、著者にこうした意識はあまりない。
- -
ここには「悪い」開発による悪しき帰結を「良い」開発によって改善しようとする意図がある。本書出版は今から13年前の1997年。でもここで提案されている千メートルビル構想は1990年代初頭なのだ。こうした前提にあるこの本で書かれていることから得られるものはあまり多くない。ベタに著者の夢語りを身に浴びて感化されるのもそれはそれで幸せだと思う(最終章では1万メートルビル構想が語られる。その名も「東京バベルタワー」)が、むしろここではこうした状況を想定した上で、にもかかわらず書かれなかったことがらからなにかを考え始めた方がよいと思う。
-
- -
本書に欠けているものは政治性と信頼の問題だ。建設に関わる個別の「政治」はこれ以上ないほどに饒舌に述べられる一方で、千メートルビルがテロの標的になり得るということへの言及がないし、近隣諸国との関係性の中でこの建設がどのような意味を持つのかへの言及もない。経済成長は問われておらず、開発(建設)もそうだ。すでに911を目の当たりにしてしまった現代において、その牧歌性が際立つ。
-
-
- -
-
この提案は空間利用のそれとしてみればとても興味深いかもしれない。でも結局のところそれは「いかに開発するのか?」というロジックへと回収されてしまっている。著者がどれだけ超々高層建築の有用性や実現可能性を謳い上げたところでそれが響かないとしたら、それは結局人々のなかに「同じ轍を踏む」ことへの不信感が強いからではないか。建設や開発は常に権力とともになされる利己的な運動でしかない。あまねくものが多かれ少なかれその構図で動いている、ということが段々周知のものになってきたということではないか。それ自体は批判されるべきことじゃない。むしろその事実が隠蔽されて何か耳に優しい文言がささやかれることこそが問題なのだ。
*1:千メートルビル、といわれると耐震性が気になるところだが、その問いに対しては地下70メートルくらいまで基礎をのばせばむしろ頑丈な建物になる、という旨の答えがある。が、これってほんとうなのか?