いつ建築か?

「建築とは何か?」と問うよりも、「いつ建築か?」と問いたい。
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その言い方はちょっとおかしく聞こえるかもしれないが、でも言わんとすることはそういうことだ。「いつ建築か?」あるいは「それはいつ建築として現れてくるのか?」。「建築とは何か?」という問いに答えるようにしてつくられるものは、ある形式性を持っている。それは端的に言って「つくる」ための文言だ。

でも日常でふと建築なるものを感じたような気がするとき、果たしてその問いはなにかの有益な機能を持ちうるのだろうか?縁側が気持ちいい。知人宅の開口部の取り方がやけにかっこいい。それは正しく建築の問いだろう。空間の生成に関する重要な問題だ。

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建築とは何か、は言えなくとも、これは建築的だ、と思われる問いがある。そしてそうした建築的思考は、なにも常に建築を考えている人にのみ降ってくるものではない。そしてその問いが彼/女をよぎるのは、日常生活のほんの一瞬かもしれない。じゃあそれはいったい「いつ」だろうか?

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それはいつ建築か?「それ」とは要するに「それ」としかいいようのないものだ。建物それ自体でもよいだろうし、空間でもいい、また別の何かかもしれない。そうした漠然としたなにかだ。生活、建設、建物のある状況、自然環境、その多様な段階において、「それ」はいつ建築として現れてくるのか?

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「あらゆるものが建築だ」といったハンス・ホラインがなさんとしたことは、「建築とは何か?」という問いの失効だったのかもしれない。彼以降、問われるべき問いは、「それはいつ建築として現れてくるのか?」であり、それから「「それ」とは一体なんだろうか?」ということではないか。

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言い換えれば「建築的思考はいつおとずれるのか」だ。それに答えはない。使い方は人それぞれだからだ。ありものの良さを発見することは、こうした問いからはじまると思っている。