そのつぶやきに耳を貸せ

中二階 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

中二階 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)


人間いつも何かを考えている。働いているときはもちろん、ぼーっとしてるときでも「何も考えてない」と言っている時でさえ、やっぱり頭の中には膨大な言葉が流れ続けている。ツイッター的にいうと、心のつぶやきセルフタイムラインはものすごい早さで流れている。大抵の人間が何も考えていなかったというのは、要するにそんな言葉をいちいち覚えちゃいないということだけだ。

たとえて言うなら、雄大な山の写真と、一輪の花のアップの写真と、どちらを壁にかけようかと迷っていたら、こんなのもありますよと、電子顕微鏡でとらえた素晴らしく鮮明な原子の写真をいきなり突きつけられた―ーそんな感じの驚きだ。


と、訳者岸本さんがその衝撃を語るこの本ベイカー『中二階』は、そんな鬼のような想起の言葉からなっている。脱線に次ぐ脱線であり、ここには出来事もストーリーも無いけれど、でもちゃんとスリリングな話になっている。考えてみれば心のつぶやきには脱線しかないので、この「話し方」にはリアリティがある。そしてこの「話」のスリリングさは、その脱線の仕方から来ている。


心のつぶやきの脱線はすべて「そういえば」から始まる。そしてその「そういえば」の後には自分や周りの人、今まで会ったことも無い人がやったことややらなかったことへ思いがいたる。最終的にはよくわからなくなって、つぶやきもうやむやになってしまうけど、でもそんな心のつぶやきの傍には他者がいる。ベイカーのこの話が面白いのは、そんな他者との出会いはとてもワンダフルなものなんだということをストレートに伝えてくれるからだ。

しかし、私にこんな遠い昔の発見のことを思い出させたものは、いま目の前で青空を背景にしているゴミ収集車―現在の、三十歳の私が見ている光景だ。(中略)どうして子供の頃に発見して、大人になった今でも充分に通用する楽しみや喜びを享受するのに、いちいちノスタルジーを総動員して正当化しなければならないのだろう? そこで私は決心した――これからは、自分の出会った驚きや喜びを語るのに、あの遠くを見るような目は二度とすまい、それが子供の頃に発見した驚きや喜びであろうとなかろうと、そんなことは関係ないのだ、と。


「見方を変えれば世界は変わる」とかいう言い方も大分身近になってきて、それ故に「で、どうすんの?」みたいな淋しい返答が返されそうな今日この頃ではあるが、この本を読みながら、見方を変えるっていうのは結構日常的に起こってるんじゃないかと思った。思ってるより自分のつぶやきっていいこと言ってると思うのだ。それをたとえば「思い出話」とか言って一蹴してしまうなんてもったいない。ちゃんと耳を貸して、その子供じみた想像につきあってあげたほうがいい。