ゴミ問題

ゴミ問題を考え始めるために。

平成7年度の警察白書によれば、不法処分された産業廃棄物の8割は建設廃材であり、検挙に至った「氷山の一角」だけで100万トンを超えている。これは、全国の建設廃材の年間排出量が約6000万トン(焼却等の処理による減量前)であることと合わせると、実状として建設廃棄物の内の例外的とはいいがたい割合が不適正に処理され、不法投棄に至っていると推定される。


こうした文章を読むと、スクラップ&ビルドを肯定したり「仕方ないよね」とやんわり黙認することが怖くなる。頭で理解するというか、いち生物として、いいようのない気持ち悪さを感じる。[ゼロ・エミッション:title=ゼロエミッション]、といういまひとつピンとこない提言にも、エコという疑わしき風潮にも耳を貸したくもなる。と、その前に頭を冷やして、平成7年度版のデ―タは古いから現状はどうだろうか、と思ったので、見てみると、平成20年度版でもやっぱり72%。これ種類。量で見ると85%(産業廃棄物の不法投棄等の状況)。


これは住宅が売れる売れないという問題よりも根深い。なぜなら毎年どれだけ取り壊されているかがポイントであり、これから先は「新建材」を使った短命の建物がかつてないオーダーで取り壊されていく時代だからだ。つまり、ここで重要なのは量はもちろん、どのようなものが捨てられているのか、ということになる。

「複合材が今一番ネックになっているのです。建材メーカーは利便性だけを求めて複雑怪奇なものをいっぱい作っていて、これが廃棄物になったときのことを全く考えていない。某ハウスメーカーのものなどは非常に困るのです。実にあそこのものは全部複合材といっても過言ではなく、既に新築現場の余剰材が入って来てますが、これが今の段階からもうどうにもならない。これらが解体される十年、二十年後にはひどい状況になります。」


こうした複合材と同じく、ある現場から出る材料を全部ごっちゃごちゃにしたまま捨てることだって当然のことながら問題にもなっている。仕分けられないからだ。業者に頼んで事足れりとしても、「その先」でしかるべき処理がなされているのか分からない。それで「責任」を全うしたと思ってしまうことが問題なのだ。それが具体的にどういう帰結をもたらしているか、こうしたニュースからその一端をうかがうことができるだろう。

だが、その後のボーリング調査で、廃棄物から基準値を超える鉛などの有害物質が検出されたほか、投棄できない木くずが見つかった。(中略) 廃棄物問題ネットワーク三重代表理事の吉田ミサヲさん(79)は「住民の生活が脅かされている。木津川の源流を守っていかねばならない。許可更新はあってはならない。業者からの謝罪はなく、県の指導も怠慢だ」と批判した。


この一件で「生活が脅かされる」のは、ゴミが増えることに対する生理的な嫌悪感のみによってではなく、生物学的に問題のある物質が生み出されているかもしれない、ということからもきている。「見つかった」からいいものの、これがそのままにされてしまっていたケースが日本中にあるはずだ。もちろんしかるべき処理を行う優れた廃棄業者もいるだろう。が、総体的に見れば廃棄する人も依頼された廃棄業者も、手間と費用を嫌う。土地所有者には解体費用を持つという実感を持たない人も少なくない。だからよりローコストの処理方法を探す。それが極端になったとき、不法投棄が起こる。そのツケは市民に回ってくるのであり、その市民の中には捨てた人その人も含まれる。


廃棄の文化誌 新装版―ゴミと資源のあいだ

廃棄の文化誌 新装版―ゴミと資源のあいだ

上のリンクで山形浩生氏が評を挙げるケヴィン・リンチ『廃棄の文化誌』は、森川氏も「ゴミ学の研究」第一文献として挙げている。モノ、場所、時間、人間、これらありとあらゆる「棄てられるもの」についての本。彼が廃棄物に向き合う際つねに問う「だれにとっての廃棄なのか。」という視点は極めて重要だ。そしてリンチのメッセージはこうだ。「廃棄という行為を楽しいものにしよう。」では山形氏の評を少し引いてみよう。

ゴミ、廃棄物、廃屋、インナーシティ問題(高所得層が郊外に移転し、都心部に低所得層だけが残された結果、都心部が荒廃する現象)など、都市における広い意味での「捨てる」行為や「無駄」に関わるほとんどすべてを網羅している。エコロジスト的警世とリサイクルのすすめでもなければ、こうすればゴミ問題はすべて解決といった清潔礼賛の書でもない。市場がすべてを解決するからそんなものは考えなくていい、といった現状追認の書でもない。強いていうなら、これらの間でどうバランスをとるべきか、という本である。さらに、時にはゴミや無駄が人間にとって快いものであることまできちんと認識され、評価されている。リンチの面目躍如である。


建築物を解体することによって「廃材」が生まれる。でもそのときの「廃材」というのは「この建築物にはもう使えない」くらいのことだ。リンチが常に問うた「誰にとっての廃棄なのか」という視点が重要なのは、こうした廃棄の裏にある価値判断を問いなおすことができるからだ。ある目線ではゴミ、でも別の目線からは資源、というこの事実を具体的に活用していこうというのがおそらくゼロエミッションなのだと思うのだ(さて実情はどうだろう?)。ある視点からのみいらないと判断され、それが「ゴミ」となっていく、ゴミ化のサイクルにどうやって風穴を空けることができるだろう?


最後に、この点に関してひとつ面白いなと思った例を挙げてみたい。以前インタビューに関わったエミリアーノ・ガンドルフィ*1が台湾で教えているとき、マンションギャラリー(一週間で解体されてしまう!)の材料を使って学生さんに公共施設をつくらせた(簡単なところではベンチだとか)という話を聞かせてくれた。業者はとにかく早く解体したいと思ってる。事実彼らは早い。スピード勝負だから学生をたくさん引き連れて、超効率よくやることだけを考えた、とのこと。「ゴミをベンチに」こんなアイデアは誰にでも思いつきそうだと思うかもしれない。でも真の創造性はそこじゃなくて、どうやってゴミ化のサイクルに介入できるかに注がれるべきだ。そしてエミリアーノの例はその意味で成功していると感じたのだった。

*1:2008年ベネチア建築ビエンナーレ「実験建築」展キュレーター。今度出版するGRLKMAGAZINEにインタビュー全文掲載予定。http://d.hatena.ne.jp/sakakibara1984/20100525ちょっと宣伝でした。