タウンアーキテクト1

一時期メディアをちょっと賑わわせたもの(真相は分からず)の、現在その名前を挙げる人はいない、気にしてる人すらおそらくいない(と思う)「タウンアーキテクト」をいまさらながら二種類挙げてみたのが前回。今回は、先に挙げた二例のひとつ「地域のデザインディレクションを行う建築家」の問題点ってなんだろうか、ということを考えてみた。「まちづくり」の話にもなりそうだと思ったので行政に詳しい方にもちょっとお話を聞いてみた。


前回は「タウンアーキテクト」という考え方を「第三者として行政と共同し「市民の意見」を生かしたデザインを行う建築家」という理想的モデルとしてぬけぬけと紹介したが、なかなかリアリティが持ちづらい。その実はおそらく建築家が「まちづくり」の舞台へと出て行く際の看板のような存在として想定された政治的なものではないかと踏んでいる。そのとき、「まちづくりはじめました」はいいがそうするためにそれ相応のポジションをしかるべきところに必要とする。「俺に決定権を!」制度化の必要性はたぶんそれ故のものだ。


ところで当の「まちづくり」は、たとえばとあるところでは(現在でも)こんな風に進むらしい。形としては「みんなでやってますよ」ということを言いたいから自治体は自分たちが主導になるんじゃなくて協議会やNPOをリーダーにして、市民参加型のワークショップでたとえば公園の遊具を決定したりする。そうすれば自治体にとっては自分たちが「これにしましょう」と言うよりも文句がつきにくいし、条例にも第三者を立てろと書いてあったりするし、第三者にお金を払いましたという旨さえあればお金の使い方をチェックされることもない(んだって。じゃあ第三者の方には開示義務とかあるのかしら?)。もちろん真剣に取り組んでいるまちづくりの例もあるはずだけど、一方でこういう風に進んでいるところがあるのも事実。まちづくりを統率したい「タウンアーキテクト」にとって、行政と市民をつなぐ「第三者」の席は「決定」のポジションを確保してくれる極めて都合がいいものだ。というか、「タウンアーキテクト」はその座席から逆算してつくられた建築家モデルなんじゃ?


でも、たいていここにはコンサルタントが座る(そっから「タウンアーキテクト」に仕事が行ったりしてるのか?)。聞いた話では行政は大体コンサルタントに仕事を投げる。丸投げする。ちょうど政治家と官僚みたいな関係性にあるらしい。そのコンサルタントが優れた人なら言うことないが、そうじゃないと前例をいくつか集めてハイ終わりということにもなりかねない。革新的な仕事は妬みしか生まず、とにかく無難に終わらせればそれでオーケー。あ、唐突にいまフと思ったが、もしかしたら「タウンアーキテクト」の名前が聞かれなくなったのは「建築学科」が「環境デザイン学科」になったみたいなことが起こっているからかもしれない。別に建築家とか言わなくてもコンサルタントでよくないか、と。もっとひどい理由も考えられるな。「まちづくりコンサルタント」という人たちこそ、「タウンアーキテクト」の名残なのではないか、と無根拠に思った。世はアーキテクト離れが進んでいるとか?


とまれ、問題は多分上のモデルが構造的に持つ「市民を代表して決めるひとをあらかじめ決めておいて、そのひとに決めさせる」という決定のあり方にある。だって、これだと決めるひとをどう決めるかという超古典的問題を仮に解けたとしても、その決定がみんなに受け入れられてかつみんなを代表してすんなり進むわけがない。ここでポイントになるとしたら、その考え方は自治体という「地域」の境界があらかじめはっきりしていることが前提になる、ということか。その上で「意見集約」システムを考える、という解もあるだろうけど、前回制度化と関係なく「かかりつけの建築家」というのを挙げた時に思っていたのは、その人(たち)のまわりあるいはその人の建築(たち)まわりにできる「地域」ということを考えられないか、ということだった。