小布施まちづくりの奇跡

小布施 まちづくりの奇跡 (新潮新書)

小布施 まちづくりの奇跡 (新潮新書)

個人的にはロース研究者として存じあげていた川向さんによるまちづくり論


長野県は小布施町は「まちづくり」界の有名事例である。小布施に研究所を持ち、その「まちづくり」に関与されている川向さんが語る「小布施まちづくりレポート」がこの本である。今回はそこから「保存」の問題について。まず一点、小布施の特徴は、町長と建築家との関係が密接であることだ。よく言えば恊働。悪く言おうと思えば、それは癒着と呼ばれる。でもこれはもうひとつの小布施まちづくりの特徴と併せて考えないといけない。それは何かというと、「持続的に手を加えることで景観(や建築)を保存する」という特徴である。これを「修景」と呼ぶ。

  1. 道路拡幅工事をしよう
  2. 沿道家屋後退の必要がある
  3. 建て替えよう


大抵「保存すべし」というと、それはすなわち「再現」となる。翻って考えてみると、「保存すべし」の声は、大抵壊されるときに出てくる。「壊される」ありそうな例が上の三段論法である。そうしてまっさらの土地ができあがる。しかも駐車場確保のおまけつき。これが観光地なら「観光バス受け入れ準備万端」なのだが、どこにでもありそうな風景に果たしてお客さんはくるのだろうか? 以前お伝えした「鞆の浦」の例は観光目的を壊して観光客の交通を確保しようとした象徴的「迷」企画だった。大なり小なり他のところでも見る風景なのだろう。


壊すか/残すか。残すにしても、そのままか/再現か。こういうパリッとした二者択一が、一方で、ある。えてして「保存=再現」された風景(とか建築とか)がどこかよそよそしいのは、それがパリッとしたというか最大風速的な「あれか、これか」的決定で出来ているからである。誰の決定かうやむやだから、「その後」が続かないのだ。ここで、町長と建築家が近い小布施の「修景」つまり「じわじわと手を加え続けていこう」という考えが生きてくる。「じわじわ」と手を加え続けるということは、あらゆるタイミングで「あれも、これも」決定しなければならない。しかもその決定の責任をずっと持ち続けていかないといけない。でもそうやってはじめて、責任に名前がつけられるのだ、とも言える。だから決定権者としての町長と、相談役としての建築家の密な関係には必然性がある。「タウンアーキテクト」というのは、こういう存在にある建築家のことを言う。そのとき「誰の名前で責任を残すのか」という建設的な課題も生まれてくると思うのだ。


こうした関係がなくなると、決定権者に相談役がいなくなる。だから「前例主義」が生まれる。しょうがないから都会や海外から有名な建築家を呼んで設計してもらう。こうやって「ハコモノ」が生まれる。自分たちの地域をなんとかしようと思っていたはずなのに、いつのまにか思わぬ姿になってしまっていた、という悲しき現実は多分どこにでもある。「変わらないでいるためには、変わり続けないといけない」とはよく言ったもので、小布施の場合は「変わり続けるため」の具体的な体制に関する基本的なところが押さえられている、ということかもしれない。