「復興」の後にも残るもの


少し前の2月19日、Social Kitchenにて開かれた編集者の藤墳智史さん企画ディスカッション「都市と貧困──『スラムの惑星』から考える」について、今思っていることもあわせて。

スラムの惑星―都市貧困のグローバル化―

スラムの惑星―都市貧困のグローバル化―

ディスカッションのタイトルにも含まれているこの本について今回はあまり触れません。また別の機会に。


この時のトークでは、日本でも着々と「スラム状態」が進行しているぞ、ということが指摘された。「スラム状態」というのは、いわゆる「ドヤ街」のような物理的なスラムのみならず、「セーフティネットがないこと」が原因となって引き起こされる、生存困難/不可能な状況のことだと言えるだろうか。一例として登壇者の篠原さんは「大阪堀江という若者で賑わう街で起ったネグレクト」事件のことを話した。人はいる、賑わってもいる、でもそこには貧しさと寄る辺のなさがあって、実際に幼女が二人死んだ。


これは「いわゆるスラム」というイメージでは語れない。貧しいながらバラックで暮らす、というおめでたいそのイメージも届かない、何やら沼のような状況が都市に広がっている。それも、都市の「どこかに」じゃない。そういう「あちら/こちら」という線引きには何の意味もないくらい、僕たちのまわりに、広がっている。もちろん、その「状況」はあまりにも幅広い。実際このときのトークも「こういうのもスラムだろうか?」ということが焦点となり、やや話が広がりすぎたような気がする。


ここで、日埜直彦さんが『建築雑誌』「未来のスラム」特集に寄せた文章、の「スラム」に関する一部をここで抜き出して、それを少し参照にしてみよう。

・・・都市が主体的位置を確立し、高度に戦略的な資本循環の基盤となる一方で、剥き出しの身体としての人間が地方から都市に流入し、そこで生存環境を獲得するためにひしめき合う。前者の事態がいわゆるグローバル・シティ化であり、後者の現場が端的に言ってスラムである。

この『建築雑誌』2011年1月号「未来のスラム」特集も面白いですが、今回はこれにもあまり触れません。また別の機会に。


「スラムは日本にあるのか?」が問題になると、その答えは当然「ある!」か「ない!」となる。でもそのとき最も大切なのは、「そのスラム」とは何か? ということだ。そのとき「ドヤ街のようなもの」という物理的なイメージしかない人がいて、一方で都市のグローバリゼーションを背景とした「セーフティネットの欠如」のような状態も思い描ける人がいる。残念ながら、この二者間の「あるか/ないか」論争にあまり建設性はない。「ドヤ街」や「いわゆるスラム」が「不良住宅群」と言われてきたように、良い住宅をつくれば状況も良くなる、という考え方はある。でも「良い住宅」を提供したって、なんともならない状況だってある。二者間の論争に建設性がない、というのは「スラムをどうするか」のもとに何を行うのか、というところがすれ違うからである。


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いま、日本は地震津波原発の問題でとてもきびしい時間にある。自分が住んでいた村ごとなくなってしまった人もいる。放射性物質で汚染されたところなんかにもういたくないという人もいる。津波で全部流されてなにもなくなってしまったところに帰ってこようなんて、もう思えなくなっている人もいるだろう。もちろん、それでも再建をめざす人もいる。ただ、不幸なことに、いま「スラムは日本にあるか?」と問えば、多くの人は、「いわゆるスラム」を「被災地」に透かし見ながら、「ある」と答えるだろう。でも忘れちゃいけないのは、そのとき同時に「スラム状態」という、住宅をこさえたりするだけでは解決できない問題がある、ということだ。これは「復興はゴールじゃない」という話だけど、それだけじゃない。


「災害復興用仮設住居が結果的にスラム化する場面を見てきた」とneloboは語っていた。これは「仮設住居はよくない」とか「いらない」ということじゃない。こう言ってよければ、仮設住居は毛布と同じように物資である、ということだ。いつかお役御免の時が来る。そのとき、仮設住居に住まう人たちに新しい住まいの環境を提供できるのか。これは建築家の考えるべき重要なことだ。「被害者」「被曝者」「弱者」として、彼らを「仮設住居」に閉じ込めておくとき、それは「スラム状態」につながっていく。だから「スラムへの対処」の名の下にいろいろとなされるべきことがある。これから先もどんどん求められる。でもそれは「いろいろ」であって、住宅を供給すること「だけ」じゃない。


今ちょっと怖いなと思っていることは、「日本におけるスラム」がイコール「被災地」となってしまい、その「災害復興」が「あがり」とされてしまうことだ。そしてそれが「あちら」の問題として処理されてしまうことだ。当たり前だけど、復興は絶対的に急がれるべき問題としてある。でもその後にも「すぐ足元にある/あるだろう/あり続けてきたスラム状態」をどうするのか、という問題は残り続ける。先に挙げたネグレクト問題は「母子の問題」でも「制度の問題」でも「地域の問題」でも「都市の空間構成の問題」でもある。何かひとつの問題ではないから、「そのスラム状態」がどのようにあるのかを見る必要がある。ならびに、その対処には誰がどうすべきなのか、を考える必要がある。こうしたことを規定し実践する役は、「復興」の後にもまだ残り続ける。そしてそれは「現地に行って具体的に協力する」と同じくらいの重要度があると思っている。