「社会的」な「問題」


2月27日(日)のopenlab.13では、近藤加奈さんに最近行ったアメリカ旅行のレポートを話してもらった。彼女自身が「こういうのやりたいんですけど」と手を上げてくれたので、「じゃあお願いします」とお願いした。レポートの内容は、彼女が旅行中に訪れた「社会的問題を建築的に解決せんとする海外の組織」の紹介となった。具体的な名前は最後の「訪問先リスト」を参照ください。その後のディスカッションでは、ここでいう「社会的」と「問題」って一体なんだろう、というところへの問題提起が少しできた。



あんまり見知ることのない固有名詞やその活動が満載で面白い会でした。


ありていに言うと、「社会的問題の解決」モデルを「Architecture For Humanity」や坂茂さんのような「人道支援」活動のイメージのみに見るべきじゃない、と思っている。もちろん現在の日本を見たときに、震災復興の中でそうした仕事はこれからも重要なものとしてあり続ける。でもそれだけが重要なものじゃない。そう考えると、「とかく問題を見つけなくては」という前提の無批判的な肯定はあまりよいこととも言えない。例えば「AFH」を京都に作りたいと近藤さんは言っていたけど、まずは「そのときの「H」つまりヒューマニティって、日本だと何だろう?」から始めたほうがいいと思う。というのも、人としての生活が貶められることは、なにも「お金が/ものがない」貧困だけの問題じゃないからだ。例えば、セーフティネットの欠如やバリアフリーの実現は、「ないから与える」よりも、その解決をめざして空間の再構成をどう考えるか、のほうが重要になる。もちろん対応策はいろいろある。


思ったことは、そういうときに「定性的」なリサーチは窮状を伝達するための強い武器となり得るかもしれない、ということだ。この話でも「リサーチ」という言葉は鍵になる。リサーチというのは「問題を見つけること」でもあるけど、根っこのところで「伝えること(ストーリーテリング)」だ。今、建築におけるリサーチへの想像力は、正直なところ、有名ないくつかのモデルによって固められてしまっていやしまいか? 量で見せたり、あるいは量を見せたりするだけがリサーチなのだろうか? どれだけの人が困っているか、だとか、問題ありの事例がこれだけある、だとか、そういうことを示すことは、「問題の解決」につながることなんだろうか?


実際さっき話したいくつかの例は、そうやって伝え得るものでもないような気がする。だから、強度の高いストーリーを伝えることによって状況を変えるという方向性もある。ちなみにこの「強さ」は「衝撃度」というわけじゃなくて、「信頼度」のようなものに関することのように感じる。「社会」はのっぺりしたものではないから、そのなかで何がどう偏ってるか、だけじゃ見えてこないものがある。いくつかのレイヤーやゾーニングがある中で、どこにどういうストーリーがあるのか、ということを、空間的に構成すること。そうやって伝えることにはそれなりの価値があるのだと思う。

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