「X marks the spot」には94年に起こったシンプソン裁判が例示されている。元フットボール選手のOJシンプソン(黒人)が妻(白人)殺しの容疑で公判にかけられ、刑事裁判としては無罪、民事で有罪となった有名な裁判である。検察側は科学的証拠によってシンプソン有罪の確実さを提示した。しかし結果は弁護団の勝利。ちなみにこの裁判を構成する要員のパーソナリティや裁判のいきさつを事細かに説明しないとなにがなんだかまるで分からないだろうけど長くなるので説明はやめる。

さて、この裁判においてポイントは血痕である。検察側は手袋、靴下、車(どれもシンプソンの所有物)についた血痕、さらには現場の様々な箇所に見つけられたシンプソンの血痕を証拠として提出している。しかしこの血痕に関して弁護団は、シンプソンが誤って傷を負った際付着したものであるため犯行に結びつける根拠はないとかわしている。

ヴィドラーはこのあたりに焦点をあててている。つまり想起されるしかない犯行現場の再現に際しての重要な構成要素(そして安定した手がかり)となる血痕がこうして不安定なものとなる。いきおいその血痕によって犯人が同定可能であろうという確信(あるいは先入観といってもいいかもしれない)自体も同様に不安定になってしまうのである。

これをその後に出てくるポー『盗まれた手紙』とのつながりを考えてとらえるならば以下のようになる。つまり科学的に対象(手紙)へアプローチした警察に対してデュパン(探偵)は対象に影響を与えうる力のレベルに着目した、というように。彼の見る空間は警察の捜査範囲である幾何学的空間とは異なったものである。いうなればそれは対象をめぐって展開する「磁場」を含むような空間ということができるのではないだろうか。手紙を王に見られないよう隠す王妃、それをこっそりと盗む大臣、それをいかにして取り返すか目論む警察やデュパン、らの力関係がそこには見られるのだ。同様にシンプソン裁判において考えるならば弁護団の勝利はこの「磁場」の存在を露呈したという点にある。それも証拠さえ見つかれば犯人が見つかると前提する人々に向かって。おそらくこのことが「空間による証拠のdisplacement」ということなのだろう。

というように咀嚼している。ヴィドラーの論には結論めいたものがないので、ここから何を抽象しようかを明確にしておかないと読みそのものが挫折するような気がする。そしてもちろん捨象コミの抽象が鍵となる(多分)。