レクチャー建築意匠

第二回。講師は平尾和洋さん(立命館大学理工学部建築都市デザイン学科助教授)。ゲストとしてFOBAの梅林克さんがいらっしゃった。テーマとしては「建築をつくる原点を考えよう」ということで、言葉では言い表せない建築体験というコアに関して、平尾さんは建築史をたどりつつ、梅林さんは自らが手がけてらっしゃるプランを提示しつつ、語るというものだった。第一回はこちら。「スタッキング」、「ペトログラフ」、「ネスティング」といった魅力的な言葉を使いながら説明されていたが各々もっと説明が欲しかった。たとえば実存主義的な空間把握の方法としての「ネスティング(棲みこみ)」という概念は、サルトル、ノルベルグ・シュルツからある種荒川+ギンズまで多数の概念が喚起される。氏の文脈、語の取る方向性などの絞込みがうまくできずニュアンスで捉えることしかできなかった(僕は)。

FOBA: Buildings

FOBA: Buildings

  • 作者: Katsu Umebayashi,Thomas Daniell,MIchael Webb,Peter Allison,Kazuhiro Kojima
  • 出版社/メーカー: Princeton Architectural Press
  • 発売日: 2005/09/08
  • メディア: ペーパーバック
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紹介文にも書かれていた通り、「建築の原点に関する言及や、始源イメージに基づく創作は、歴史上繰り返し現れてきた」のだが、こうしたオリジンを再考することにアクチュアリティはあるのか。この疑問形まで紹介文に入っているのだが、実際のお話ではモダニズムのギチギチとした合理性の振れ戻しとしてより始源的なプランが流行るでしょうねという結論で終わった(時間がなかったこともある)。

「何事のおはしますかは」よくわからないけど(泣けるほど)畏れ多いというヒエロファニーは、始源的建築(特に宗教的なもの)が一般的に持っている(た)とされるものである。磯崎新が言うように西行の例の言葉は、伊勢神宮が神の存在を隠し且つ二十年毎にみやうつしして自らの始源をうやむやにするというヒエロファニーのメカニズムをまさに象徴するようなものであった。ところがこうした説明不能な非合理空間はモダニズムの合理主義運動のなかで排除されてきた。でもモダニズムの頭打ちが一定のレベルで明白になってきただろう現代において、もう一度そのヒエロファニーを見直すべきではないか、ということである。

ルイス・カーン建築論集 (SDライブラリー)

ルイス・カーン建築論集 (SDライブラリー)

このヒエロファニーを独自の解釈で住宅へと導入した注目すべき建築家としてルイス・カーンが紹介され、後半は彼の言説へと進んでいった。晦渋というか「何言ってるのかよくわからん」カーンの言説のなかでどこに響くからは各々次第ということになる。つまりカーンの非合理的空間が近代の均質空間と対立すべきものとしてあったことは確かであるが、彼の建築での二種類の空間(彼自身サーヴ/サーヴァント・スペースといっているがこれは関係あるのだろうか)のバランスの取り方にこそ注目すべきであろう。
住宅論 (SD選書 49)

住宅論 (SD選書 49)

これはレクチャーに関係なく最近僕が読んでいたというだけの話になってしまうのだが、篠原一男氏の思想にも部分的にカーンと似たところがあるのではないかという印象をもった。彼はヒエロファニーという宗教的(あるいはその要素が強い)概念を使わず「無駄な空間」という語で表している。この場合の「無駄」を決める判断基準はいうまでもなく近代合理主義であり、人間の動線を徹底的に経済化することを目標にする、いわば生態マターで決定していこうというマッチョな考えに反しているととれる。それはまた追って考えてみようと思う。

ちなみにこの本、雑誌での建築評論をまとめたものである。そのおかげといってはナンだが彼の歯に衣着せぬスパッとした批判によって当時の日本建築状況が伺える一方、凝縮した各概念が彼の創作論を彩っているので、一度で二度おいしい。面白かった。