エイドリアン・フォーティ講演


昼からの雷雨で学校が停電した。授業中止かと期待したのだが、しっかりと復旧したので早退して講演を聴きに行った。


いままでのこと、そして今取り組んでいること。フォーティが話した内容をざっくりとまとめるならこうなるだろう。制作系の学生に理論の面白さを知ってもらいたい、という思いが司会の先生の前口上から推し量られる。


ちょっと大きめのクラスに100人ほどが集まり、予定時刻の4時10分を少し過ぎたあたりからフォーティが淡々と語り始めた。写真は無いのだがちょっと姜尚中に似ている。テレビ、冷蔵庫といった家電がはじめて我が家にやってきたときのこと、オックスフォードでの学生時代のこと、レイナー・バンハムのもとで勉強したときのこと、『欲望のオブジェ』を書いたときのこと、『言葉と建築』を書いたときのこと、いま取り組んでいるコンクリートに関する研究のこと。最後に「というわけでいまここにいます」といって彼は話をやめた。


以下彼が話した順番に要約してみました。


欲望のオブジェ―デザインと社会 1750‐1980

欲望のオブジェ―デザインと社会 1750‐1980


日常の景色を形作る平凡なモノやはかないモノ、今まで語るに足りないとされてきたこれらのものに対する興味が彼の研究の出発点になっている。彼がまず退けるのは「グッド」デザインという一つの権威。そしてこれに対する妄信的な態度である。「バッド」デザインから人々を守るデザイナーによって制作された作品、ではなくそれを受容する側へと研究の視野を広げ、デザイン史=デザイナー史というこれまでの慣習を批判する彼にとって『欲望のオブジェ』とは「グッド」デザインという権威からのエスケープであった。ただプロダクトは単純に社会の反映ではない。社会がプロダクトにあたえ、またプロダクトの登場が社会にあたえる影響の双方に着目すべきである。ちなみにツーリズムもそういう意味で興味深い現象だといえると思う。


言葉と建築

言葉と建築


建築というシステムへと研究の対象を移した彼は、一つのパラドクスに着目する。それを端的に表しているのが「語らないで建てろ」というミース言葉と、インタヴュアーと議論する彼の写真との並置であろう。建築は建物の建設のみによってつくられるものではない。建築家の意図が具現化し、一方的に伝達されるというメカニズムは実のところ諸メディアによって操作されざるを得ないものである。このことは本書第二部に収められた「建築家が好み、これを言えば相手が理解するだろうと思っているのだが、実のところ極めてあやふやで多層的な意味を持つ」17の言葉が象徴的に示している。


現在彼はコンクリートに関する研究を行っているようで、今回の来日もその一環だったようだ。彼の問題意識を箇条書きにすると、

  1. その発生から「テクノロジー」に貫かれていたはずのコンクリートが装飾的に使われたりするのはなぜか。
  2. 1970年代の北ヨーロッパでコンクリートという素材そのものが嫌われたのはなぜか。
  3. 1990年代のとりわけスイスでコンクリートが中性的な意味づけをなされたのはなぜか。
  4. コンクリートの建物はどこでも同じというけど、本当か。


講演後二三質問ついでに「次の著作はいつ頃出ますか」と尋ねたところ「三年くらいかな・・・」と思案顔で答えてくれた。最後に付け足すように言った「I hope」が気がかりだが気長に待つことにする。彼のタクシーの時間が来たのでどうもありがとうと握手をして帰った。