レポート

夏休みの課題のひとつである建築史のレポートのこと。テーマフリーなのでこの前の旅行で訪れたニュータウンについて書こうと思ったのだが資料が足らないのでやめ、このあいだ提出したダイワハウスコンペの自案を説明することにした。ということでテーマは「収納について」(なぜ収納かについてはこちらをごらんください)。建築において「収納」とは、がパート1で、自作の説明がパート2、という構成でいきます。

秋葉原にあった「レンタルBOX」。アクリルでできたケースを一ヶ月単位でレンタルして商品を配置し、売買は店側に代行してもらうというシステム。これをいきなり住宅へと接続することはできないけど、「収納」という行為が一般的に考えられているような「保存」行為にとどまるものではなく、「見せる」という能動性を持ちうることをよく示している一例ではないだろうか(もちろんそれだけじゃないのであくまでも話のつかみとしてですが)。それでも建築史を遡ってみると、こうしたモノの氾濫という観点においてこれと類似するビルディングタイプはおそらく「ミュージアム」、それも「ホワイトキューブ」の前身となるような「驚異の部屋」(ヴンダーカンマー)にあたるように思う。

現代住宅研究 (10+1 Series)

現代住宅研究 (10+1 Series)

ところで、「収納」をテーマにした建築の言説は少ない。最近読んだ中で唯一といっていいのが塚本+西沢『現代住宅研究』の「収納」の項である。都市部の住宅における「機能のアウトソーシング化」を示唆しながら、その具体例としてホテル(客室)、コインランドリー(洗濯機、バルコニー)、銭湯(風呂)、コンビニ(冷蔵庫)、外食(ダイニング、リビング)等を挙げていく。こうして対機能的に住宅を見たとき、最終的に残るのはアイデンティティと根底でかかわる「収納」と、あとは「寝ること」ではないかと述べる。ただそれでも、部屋の大きさに対して一定以上モノが溢れてくると、「寝ること」すら「身体を保管すること」と等しくなり、ヒトのいる部屋とモノのある「収納」という区別が無効になるのではないか、というものである。ここから「収納」を基準として現代住宅のあり方を二つに分ける。ひとつが「ヒトとモノの区別をつけない」方向であり、もうひとつが収納場所を明確に分けることで、「ヒトとモノの区別をつける」方向である。

ところで「機能のアウトソーシング化」といえば今のネットカフェがすごい。フラットシート席導入、ハイスペックパソコン導入、シャワー完備、あとすごかったのがマイクロソフトオフィスに限りなく近いソフトが使えるパソコン完備とか。こうした環境が続々と整いつつあるわけで、そうなるともう「家にいる」必要性が結構危うい。それでも「家にいる」のはおそらくモノがあるからだろう。

彼らは明確に述べていないが、「収納」とは住宅/都市というプライベート/パブリックという関係性と、住宅内部におけるその反映とを方向付けるような力があるのではないだろうか。建築家がある住宅に割り振る固定的な空間(ダイニングとか、リビングとか)は、例えば個室であればそれがプライベートな空間であり、リビングであればプライベート/パブリックの緩衝地帯であるように、各々都市あるいは「外部」との関係性を反映した形で配置される。ただそこにヒトが住むことによって空間の意味づけは当初のものから変化していくのであって、その変化とはつまりそこで行われる「収納」という媒介をへて具現化されるのではないか。実際、坂本一成のような建築家はこうした所与の意味があらかじめ決定された空間群という住宅のあり方に早い時期から疑問を呈してきている。彼がある時期から「収納」をポイントにした住宅をつくりはじめたことは、室の意味が「収納」との関係性で相対的に決定されることを表しているようにも思うのだが。物理的なレベルであらかじめ行われる空間の分節を住まい方のレベルで可変させていく、つまりハードをソフトの側から変化させていく媒介となるのがほかならぬ「収納」なのである。そういう意味で、「収納」とは(空間の)内部/外部の「あわい」に存在するものであり、且つその内部/外部を意味(ここはリビングです、とか)によって規定していくものであるということができないだろうか。

また、何を見せ、何を隠すか(「見せる収納」「隠す収納」)という選択行為を「収納」が持つということは、「収納」が空間を通して「わたし」あるいは「家族」(共同体)のアイデンティティを形成することを意味しているだろう。そう考えると、「収納」とは「外部」(パブリック?)の側に存在する不特定多数のまなざしを、住宅「内部」に内在化させる行為であると考えられはしないだろうか。

というのがパート1。パート2は自作の説明へ進みます。