都市の建築のこと

図書館で見つけたとき、この装丁は教科書のようだと思った。

都市の建築

都市の建築

翻訳者はあとがきでその紙幅のほとんどを翻訳作業にまつわる苦労話で埋めている。原著があまりにも荘厳な趣の文体なのでイタリア人の学生でさえどれほど理解できるものか云々、と。これは八束はじめ氏によるタフーリの翻訳を読んだときにも思ったことだが、いったいここでは何の話をしているのだろうかと正直分からなくなるところが多かった。三宅理一氏が当『都市の建築』の書評をどこかに記していて曰く、微妙なニュアンスを付与された各語が生真面目な逐語訳に埋もれてしまっている、とのこと。翻訳者があとがきで批判していた英語版の意訳(英語版遍者はピーター・アイゼンマンなのである)が持っているだろう大胆さも必要だったのではないか。アイゼンマンはロッシの文体が持つ色気を生かしたかった云々と言っていたらしい。
実際、ロッシの言う「都市的創生物」「類推」「基本要素」「参照価値」といった言葉には、本テクスト内外から汲み取らねばならない多様な意味があるように思う。だからもしかしたら読みにくさはこうしたテクスト間の中継作業に起因する(こじつけられる)のかもしれない。タフーリのときに感じた読みにくさもそこにあるのだろうか(どちらも背筋が凍るほど博覧強記の人なのだ)。そしてこれらの語はいまだにうまく理解できていない。

都市は建築である。都市は手づくりのものである。ある「都市」という容器の中に「建築」が入れられているのではない。都市は長い時間をかけて作られる手作りの建築からなっているのだが、その中でも「基本要素」と「地域」とによって構成される。モニュメントという「永続性」(これもまたやっかいな用語)の概念と不可分の建築物が例えば「基本要素」であり、居住空間と関係する「地域」が他方にある。ここでは集合住宅と個別の住宅は、おそらくその「参照価値」中谷礼仁氏曰く「事物の転用可能性」によって、分けて考えられる。集合住宅は基本要素に入るのだ。「基本要素」「地域」によって「かたち」が都市につくられ、長い時間とともにそれに手が加えられていく。この意味で「永続性」とは「かたち」の残存と関わるものだろう(至極あたりまえに聞こえるな。以下のセンテンスでやや詳細ありです)。都市を単層的な文脈の反映として事足れりとしないロッシは、汎用可能な規範の模索のために類型学的アプローチを取りつつも、どこか寓話を語っていくように都市というつづれおりを紐解いていく。都市とはきわめて複雑な複層的要素の絡み合いからなるものである。

ローマ、コロッセウム。シクストゥス五世による羊毛工場と工場労働者のための付設住宅への転用計画。1590年。

ローマ、コロッセウム。カルロ・フォンターナによる中央に聖堂を備えた広場への転用計画、1707年。

ロッシの主張が興味深いのは、彼が都市における「かたち」の重要性を強調したところにある。かつて単一の機能によって導かれたかたちであっても、「都市の人間」によって長い時間をかけて転用され、いくつかの機能を帯びていくのである。これが「都市の建築」なのだ。彼が素朴機能主義を批判するのも、それが原因と結果とをあまりにも短絡しすぎ、「かたち」がいくつかの機能を呼びおこすという興味深いダイナミズムを捨象してしまっているからであろう。中谷礼仁氏は『セヴェラルネス』のなかで『都市の建築』における「かたち」の問題を掘り下げ、アレグザンダーの「都市はツリーではない」との関連で論じている。