石山修武のこと

1984年にまとめられたエッセー集。ということでタイトルの「秋葉原」に現代のニュアンス(アニメとかのこと)はさほどない。電気の部品を買うためには何件もお店をはしごして買い手のオヤジと渡り合って入手するのに、なんで住宅ではそれが出来ないのか、と問う本。家が高すぎることに文句を言うわけだ。

「秋葉原」感覚で住宅を考える

「秋葉原」感覚で住宅を考える

とはいえこれがハウツー本やマニュアル本かというとそういうわけではなく、上のような意思で身ごと建築を構成するシステムにぶつかっていく著者とその仲間たちの存在自体がある種の批判になっている、そういう意味でのちゃんとした建築論だと思う。当時から果たしてどれくらい状況は変わったのだろうか。

だから(というのもへんだけど)ここには近代建築の巨匠と呼ばれる人たちは出てこない。ミースもコルブも出てこない。その代わりにフラーが出てくる。そして彼の思想に共鳴した60年代のヒッピーたちが出てくる。著者の読み方は、エネルギーの効率性の問題としてフラーをとらえるだけでは不十分であって、シロートでも家っぽいものが出来るというところに着目する。家を建てるのに工務店は必ずしも必要ではなく、工務店を通さなければ家はずいぶんと安く建つのである。著者にとって使用者とはセルフ・ビルダーの意味を帯びているんじゃないかとも思う。

こうしたセルフ・ビルドを推し進める人々の横顔も本書からはよくうかがえる(こういうところが面白い)。その中の一人でもあり、著者の師でもある川合健二(上の画像は彼の自邸)に関しては一章割いて論じられている。川合が「建築なんかに拘泥しなくていいじゃないか」と著者をエンジニアの道に呼び込もうとした(でも断ったらしい)とどこかで読んだのだが、川合健二論「ある「亡命者」の肖像」はなんとなくその一線をどうしたもんかと悩む著者が垣間見える(ように思えてしまう)。ただのリスペクトではなさそう。

石山氏といえばコルゲートパイプ(川合健二自邸もこの素材)を使用した奇抜な住宅が特徴的だが、そんな彼がコルゲート素材を封印するにいたるまでが度々語られる。端的に言えば使用者が文句をつけたということが原因なのだが、このエピソードこそ彼にとっての「使用者」のあり方がどこか一筋縄ではいかないことを示しているのではないだろうか。