安藤忠雄&深澤直人講演会

12日はユニオン主催で安藤忠雄氏と深澤直人氏の講演会があった。中ノ島公会堂にて。

とりわけ面白かったのは深澤氏の講演。氏の発言を直接聞くのはこれがはじめてだったのでメモがてらにレポ。タイトルはうろ覚えなのだが身体性とデザインのつながりのようなものを示すものだった。氏のしゃべりかたは、言い方は悪いかもしれないけど、ちょっとズルズルしたところがある。ピークと言うものがあまりない。ピークというものがなくズルズルとしゃべるなかに時々すごいグッと来る発言があった。それらを軸にして全体的骨子を提示できたらうれしい。
残像=いいデザイン
バス停の傍にある、一部のみがたわんでいるガードレールの写真を見せながら「これがいいデザイン」と言う。ちなみにこのからくりは簡単で、バスを待つ人が腰掛けたからガードレールはたわんだのだ。なぜここがたわんだかと言えば、バス停との距離感がちょうどよかったからだ。いわばこのたわんだガードレールは「人々が選んだことの残像」としてそこにある。「触れるということは無意識的」という氏が一番初めにした発言はおそらくここにかかっていて、人は意識していないときのほうがうまく環境と調和できるのである。氏はこれに気づいたとき、かたちを頭の中でこねくり回すことをやめた。
Our body is functional.Our brain not
これはつまり「アフォーダンス」の話なんだ、というと一部の人は「あぁ、それね・・・」というだろう。丸太は座ることを人々にアフォードしている、というあれだ。環境が人々に与える価値の話。でも深澤氏の話が面白かったのは、その後。Kevin Henryの「Making do and Getting by」という写真集の中の、長靴をドアストッパーにしたりしているところ(ちなみに写真集のタイトルはうまく邦訳できないのだけど、あえて言うなら「うまいことやる」という感じだろうか)を見せながら「ここには機能的だからこそ見えてくる状況がある。そこに同調すると、私はこれを美しいと思う」という旨の発言をした。いわば「動物的賢さに対する哀愁がある」と。私たちの身体は思ってるよりファンクショナルで、でも私たちの考えはそうではない。これは推測なのだけど、前者の「速さ」に後者が追いついていない一瞬を抜き出したのがこの写真集であって、そこになにかエモーショナルな何かを氏は見出したのではないだろうか。それがたとえば美だったんじゃないだろうか。
すし屋のようにデザインしたい
じゃあかたちをやめた氏はなにを思ってデザインするのか。これはすごく面白い言い方だったのだけど、氏は「すし屋のようにデザインしたい」と言った。誤植も聞き間違いもない。すし屋だ。身体から起きた残像を取りこぼすことなく、その動物的賢さに付随する「速さ」を新鮮なまま、人々に届けるということだ。氏のデザインにエモーショナルななにか、とりわけ哀愁のようなものを感じるとすれば、それはもしかしたら意識が追いつかない身体の「速さ」に氏が意識的だからなんじゃないだろうか。

ちなみに、やっぱりラストもカデンツァのようにズルズルして、すっと終わった。