監視とアーキテクチャ

正月三が日は風邪引いたので実家で寝正月でした。今年もとつとつとエントリ挙げていきますのでよろしくお願いします。
「監視とアーキテクチャ」を考えるための映画2本

トゥルーマン・ショー(通常版) [DVD]

トゥルーマン・ショー(通常版) [DVD]

98年のピーター・ウィアートゥルーマンショー』
アイランド 特別版 [DVD]

アイランド 特別版 [DVD]

と05年のマイケル・ベイ『アイランド』
どちらも世界のどこかに作られた物理的環境(パラレルワールド?)の内外をめぐる逃走劇。内側には完璧な管理が敷かれ、それが故に完全な「安全」がその「住人」に約束されている、という点がまさに「監視とアーキテクチャ」の具体例となっております。基本的にそのシステムはある種の「善意」に敷き詰められているということになっている。ただこれらの映画で特徴的なのは、どちらもそのシステムを統べるものがいるということ。実世界における「クローン」をパラレル・ワールドで育てるというビジネスの首謀者(『アイランド』)、ある男の一生を常時放映する人気番組のプロデューサー(『トゥルーマンショー』)の二人がそれか。彼らの采配によってシステムはその「住人」にとってときに悪意ある存在となる。

  • トゥルーマンショー』:慕い合う「システムの構成員」と「ある男」トゥルーマンとの離別
  • 『アイランド』:リアルワールドに住む「クローン元」への「移植」

こうしたわかりやすい「首謀者」と「危機」から脱出するために、システムの内外を知る者の力をかりながら、そのシステムに気づいた主人公は、逃げる。彼らが逃げ込む「穴」がどちらの映画においてもそれらのシステムを整備するための「口」であるところが皮肉と言うか面白い。ただポイントは実社会において「監視とアーキテクチャ」が単一的な主体に統べられているという状況がいまいちわかりづらいということ。だから首謀論的な悪意のシステム自体はそれほど問題にすべきではない(と思いたい)。でもシステムをマネージしないといけないということが不可避的に作り出す「穴」みたいなものはおそらく残る。むしろ現実の「監視とアーキテクチャ」で意識しないといけないのはこちらのほうではないだろうか。悪意は(システムの)細部に宿る、というか。
あともう一つ。『トゥルーマンショー』に限って言うと、これはかつてのアメリカにあったのかよくわからないのだけど、「ムラ社会」のアナロジーが貫徹されているようにも見える。「ムラ」から排除された「村八分女」に惚れた男がその「ムラ」からどうにか逃げ出す、みたいな(無理があるか)。考えてみれば「村八分」という状態はかなり「監視とアーキテクチャ」の実例として挙げられるのではないかとも思う。実際「村八分にされる」という規制のモードは「規範」の色が強いだろうけど、「村八分にされた」状態にあって、そのされた主体はそのシステムの内部で注目されながらとどまるか(座敷牢?)そのシステムを捨てるか(脱走劇?)のどちらかしかない。映画はハッピーエンドで終わったけれど、それは逃げ込んだ先がシステムの外部故に不問にされたからであって、実社会で「監視とアーキテクチャ」が貫徹されたときに「逃げ込む先」がないのは恐怖と言えば恐怖だ。
つまり言いたかったことはこのふたつ。

  1. 首謀する悪意ある主体ではなく、システムをマネージするものが少なからずいる、という状態が引き起こす問題を意識すること
  2. 現在の言説が著しく「被害者」の位置に立ったものとしてある(あまねく場所に監視カメラを!みたいに)のに対し、自分が「加害者」の側に図らずも回りかねないときに「逃げ込み先」をどうするか、ということを意識すること

あ、なんか正直映画の話あんまり関係ないよねといわれたらそれまでだけど、こうしたことも「監視とアーキテクチャ」の問題として引き受けるべきなんじゃないだろうかとか思ったり思いあぐねたりしている。