パノプティコンのはなし

14日、レクチャー前に大屋先生とお話したこと。
唐突ですが、現在のアーキテクチャ論で時々援用されたりするのかもしれないベンサムパノプティコンのことを、少なくとも建築関係の人はフーコーの著作、あるいはそれを引用した文献でしか知らないはず。

監獄の誕生 ― 監視と処罰

監獄の誕生 ― 監視と処罰

そこで語られるのは、囚人からは監視する人が見えず、そのせいで囚人は、実際に監視する人がいなくても、監視する目を自らに内面化してしまうというギミック(だと思う)。ここから自己監視-自己反省する近代の主体像が語られたり、これ自体が常にどこかから誰かに見られているかもしれない管理された環境の比喩になっていたりする(と思います)。フーコーにとって、パノプティコンは「規律訓練型権力」のモデルだったと言える。

同心円の中心に監視人、その周りに囚人が入るようになってます
ただ、これは上の画像を拝借したWikipediaでも触れられてることなのだけど、このパノプティコンは一種の救貧政策として考案されたものだったらしい。ベンサムの面白いところは、理念的な構想をズラーっと書き出した次のページに、突然ベッドのスプリングの硬さやシーツの大きさ、そしてそのシーツにどのように縫い目をつけると折りたたみやすくなるか、といったものすごい実際的な解説を矢継ぎ早にはじめているところ。ハイとローがグルグル入れ替わる記述だったようだ。大屋先生曰く「ベンサムは多分躁病だったんだと思う」
つまりベンサムにとってこのパノプティコンという建築システムはあくまでも構想の一部でしかなかったのだ。だから監視人が1人で十分というのはあくまでも効率の問題だったし、その中で使われるシーツやベッドのディテールも効率の問題だったと考えるべきだろう。フーコーは「囚人は監視人を内面化するから監視人がいなくてもオッケー」と言っていたのだけど、ベンサムのほうでは「監視人は動かなくてもいいから障害者でもオッケー」ということを考えていた。ベンサムにとって監視人は「必要」だったのだ。
何が言いたいのかというと、フーコーベンサムとの二人の間でフィクションに対する想定の違いがあるのだ、ということ。そしてこの「フィクションに対する想定の違い」は、現在建築界&思想界の両方で議論の対象になっている(と思われる)「アーキテクチャ」の議論において一番注意すべきことなのではないか、と考えているというお話でした。