リサーチ・フォー・リサーチ#4


序文はこれにて終わり。最後今リサーチを行う現在性について、そしてリサーチのリサーチを通してどのようなところを目指すのか、が語られる。

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この本を読むことで、さらなるより深い研究を必要とするこれらの相互参照や相互理解のより多くを知ることができるだろう。次章ではまた別のプロジェクトが調べられる。注目をそちらへ移してみよう。


このイントロダクションでの最後の二つの指摘。ひとつ、リサーチに基づいて建築のそして都市計画の歴史を書くことができそうだ、ということ。ちょうどそれは建築や都市計画の歴史をプロジェクトやその影響に基づいて書くことができるように。あるいは私たちが今日見ているリサーチの系譜を書くことができるように。より多くのリサーチがなされなければならないが、ここで仮定的にこの系譜においてレム・コールハースのリサーチがオットー・ノイラート、ヴァン・エーステレン、そしてヴァン・ロウハイゼン、ヒルベルザイマーやコンスタントの伝統にあるリサーチの統合として見えるということを示唆しておきたい。ヴィニー・マースは明らかにヴァン・ロウハイゼンの伝統に布置されるだろうし、ステファノ・ボエリならばタイポロジカルでモルフォジカルなリサーチの流れに沿う。ラウル・バンショーテンはシチュアシオニストの流れ、スタジオバーゼルで結びついたスイス勢、ジャック・ヘルツォーク、ピエール・ド・ムーロン、ロジャー・ディーナーとマルセル・メイリはバウハウスヒルベルザイマーの近代的な流れに沿う。ハンス・ホラインは「Ort und Platz」プロジェクトでヒルベルザイマーの教育アプローチにひねり加えた。そこで生徒たちはひとつの複雑な都市を歴史的に分析しはじめる。個別の建築家が使用した手法が、彼らが育った国々の支配的な流れと、あるいはその建築家がたどった教育的な軌跡とどのように強い相関をもっているのか見て行くことは魅力的である。


とするならば、それら先達たちが自身のリサーチを始めた状況と現代建築家が今日直面している状況とを比較することは興味深い。どの程度彼らが既存のリサーチ手法を用い、どの程度それらを変化させているのだろうか。例えば、都市がだんだん閉じた存在となり、しかしよりいっそう他の都市と関係づけられているという事実に、彼らはどのように対処しているのだろうか。国境がよりぼやけ、統計上のパラメーターの静的な一セットになっているという事実にどのように対処するのだろうか。興味深いことに、これらの諸問題はすでにヴァン・ロウハイゼンにとっても問題であったし、それを解決する中で、彼はランドスタッドを発見したのだった。しかしながら、ヴィニー・マースのリサーチが一定の予言をなすためには、「メタシティ・データタウン」内の推論的自立的建築都市を伴って、ペトリ皿的な状況を確立しなければならないだろう。


さて、これはリサーチそのものに関することのみならず、このリサーチをデザイン方法へと、そして官僚的システムへと変えて行くという問題に関することでもある。後者は初期モダニストが異に得意としたことで、とりわけオランダのヴァン・エーステレンとヴァン・ロウハイゼンが挙げられる、と同時に、これは今日の建築家やプランナーからかなり無視されている点でもある。彼らは規制を取り除くことにのみ興味があったようだ。それらが初期の近代性において、リサーチから引き出された結論という制度化の論理的帰結である、ということを理解することに興味はなかったように思われる。レム・コールハースは彼のローマ的オペレーティングシステムにおいて、オットー・ノイラートの論理的な実証主義に大きくかえっているようにも見える。そこではビルディングタイプがある種のプロトコルセンテンスとして都市をつくることに使用される。彼がしばしば使い採用するノイラートのアイソタイプ言語によって近代化における信念を集合的な過程として共有するが、それはイデオロギーによってほとんど影響を受けなかった。しかし彼はプロトコルセンテンスという考えをアイロニカルな方法で使用し、『S,M,L,XL』をはっきりとノベルと呼んでいる。要するに、彼はプロトコルセンテンスという考えに対する批判を真になしているのであり、プロトコルセンテンスに基づく分析とおとぎ話との間には何の差もないのだ。ヴィトゲンシュタインもこの問題に気づいたが、彼はそれでもなおそれは「作品」として見えるというだろう。知っての通り、ニュートンの重力に関する理論と彼の定式は科学的には誤っているが、私たちにとっては現状なんの問題もないようなものだ。同様に、建築的都市的リサーチを見るべきだろう。ヴァン・ロウハイゼンが既に主張した通り、それは決して終わらないプロセスの中でコンスタントに再活性され、更新されるべきだ。たとえ絶望の中にあっても、内包される複合性に対応しようとし続けるべきだ。これを自立的建築への回帰によって無視することは現実逃避なのである。