Broadcasting Architecture後半

現実そのものよりもストーリーの方に対する意識が台頭してきた、というひとつの逆転が語られた前半の終わりから、建築はその逆転に関するメタファーのなかでも注目すべき事象だよということが後半で語られる。政治的な溝がほんとうか/うそかの間にあるものという先の指摘はストーリーの強調を巡るひとつの政治的帰結だ、ということか。あるいは逆か。なんにせよ建築家として超うまいことやりたかったら、現場のリアリティとか言ってる場合じゃなくて、「自分自身の神話」をつくることからはじめなければならないのだ、という提言は潔い。別に自伝を書けとか言ってるわけじゃない。神話をつくる能力、あるいはストーリーテリングの能力こそが求められている。当然疑問は「なんで?」ということに向くだろう。この問いに対してこの文章はグローバリゼーションを背景としたブロードキャスティングという状況で答えようとしている。でもすっきりは読みづらい。もう舞台に乗ってるんだ、降りないのなら身の振り方を考えろ、ということか。そんなストーリーテリングの話はvolume#20のまさにテーマになっている。これは4月に読む予定。それから最後のパラグラフで語られる現状分析は#17のコンテンツマネジメントの前提とも重なってくるような気がする。

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ヴォリューム20号の概説からちょっと引用

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ヴォリューム20号ではストーリーテリング術について考えていく。その中で現在的な出来事や建築のあらすじをお届けしよう。真実は重要だが、事実を持ち上げるためにフィクションを使う能力もまた重要だ。それを見せる。おそらく私たちの時代を理解する最も善い方法は、現実を歪め、悪用し、そして活気づける物語を通してのことである。

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ということで、後半。

注目すべきことに、建築はこの逆転に関するあらゆるメタファーのなかでも最も重要なものとなっている。建築は誠実さと正直さという近代的な特権として長く見られてきた。今号のヴォリュームは建築的行為として創造される神話や、建築家としてその行為なす加担者の多様な例を提示する。でもこれはその地位が低くなっているということでは決してない。対照的に、建築的な肩書きを「なんでも知ってる人」―戦争、コンピュータプログラム、セラピー、あなたのまつげを本当にカールしてくれるマスカラなどなどについても―へ贈ることで、その像にさらなる敬意をあたえる。建築家という語は気品さの指標だ。よく知られている通り、それは常に高貴なものとして見られたい者の間でもてはやされる。このように建築は言葉遊びに惑わされ、その言葉遊びが数十億の運命を規定する。関心は住居ではなく、地政学的な建築というゲームの中で自らが置かれる位置だ。


建築家はこれをどう思うだろうか。もちろん彼らはこの神話学的暴力にノータッチというわけにはいかない。もし建築をレトリカルにかすめとっていくことからどうにかして恩恵を受けたいのなら、建築家は自らの神話という建築からはじめなければならない。ややもすればこれは最も重要な仕事になるのでは!建築がそれ自身を超える、ということもまた、あらゆる建築的作業に先立つストーリーの創造、とりわけあらゆる建築的な見え方をしのいでそびえる塔の創造を、意味している。現場にある建築的リアリティは重要ではなく、むしろ飛躍する建築的ストーリーこそが重要だ。これを理解するデザイナーは次第に増えており、彼らは制作に加えて自らの仕事が持つ効果を発展させることにより多くのエネルギーを注いでいる。示唆のレベルを決して超えたりすることのない、ひとつながりの終わりなきイメージを彼らは生み出すのだ。それらイメージは正しい集団に提示され、彼らがなすべきことに関する独特なストーリーを組み立てる。このストーリーがなければ、よい環境をつくりだすキュレーターとしての建築家の立場はますますあやふやなものとなるだろう。だから彼/彼女がより頻繁に求められることはあまりなく、むしろ神話のほうが―そう、神話だ!―これまでよりもずっと求められている。神話を創造できる者はだれであれ、突如として、そして絶対的に不可欠な存在となる。その能力さえあれば権力による不誠実なまやかしへと建築を犠牲として捧げることだってできる、と信じる者にとって、権力による公正なまやかし(あるいは対抗権力によるそれと同じくらいの疑わしさ)が建築の神話をうまく利用できるかどうかを確かめることに興味があるのだろう。もしアラステア・キャンプベルが「新たな仕事」をつくり、建築的知性を証明しようと試みるならば、津波によって荒廃したインド洋岸の再領土化を分析したナオミ・クラインの話と重なってくるかもしれない。もしシルヴィオ・べルシュコーニがスタジオやスタジアムへと彼の帝国支配を行き渡らせようとするなら、遅れてきた世慣れなマルラ・ルチカを、戦争の代償として死んで行った人々のストーリーを伝えるため、サルドリ市のストリートにいる人々にわざわざコンタクトを取った者として思い出すこともできるだろう。彼らは空間を整え、権力を分析する。そしてついに彼らは選択するのだ。


同じことが建築にも言える。メディア操作とは日和見主義的な装置であり、またアクティヴィスト的な戦術であるかもしれない。エゴの促進、あるいは他者との関わりに関する戦略かもしれない。ここで問われるべきは、メディア操作というまさにその事実だ。googleの時代、つまり検索とヒットの時代において、人の基本的な要求はコメントされること、リスト化、キーワード化などなどだ。それはもはや発見されることへの期待による慰めではない。自身がカヴァーされていることははっきりしているのだ。それでは・・・