Broadcasting Architecture前半

RADのほうのウェブサイト関連文章を整理していたら中途半端になっていたVolume3号の序文が出て来た。当該の号のテーマが「建築を伝達すること」である通り、この序文でも建築を巡るメディアの役割が語られる。近代において建築家とメディアとの間にあった距離感をテコにしながらそれまでの建築家像を問い直すようなビアトリス・コロミーナの表象文化研究もあるが、ここで扱われているのはいわば戦術的なメディアの問題、とりわけテクノロジーの発展によって容易に世界規模でそれが可能となった「建築が伝達されること」の政治性という問題なのかも、と思う。タイトルの「Spin」は本文にも出てくる「メディア担当アドバイザー」という意味での「Spin Doctor」の「Spin」だろうけど、適当な訳語がみつからない。

The Spin of Architecture and the Architecture of Spin. (Editorial)
author: Ole Bouman


英国下院議員ジョージ・ガロウェイが、石油・食糧交換計画への彼の不正関与の可能性を調査していた米国上院のパネルの前に引き出されたとき、彼は共和党の大多数に対して注目すべき痛烈な非難をなす。彼らは自身の保守政策に基づき世界規模で事物のオーダーをせわしなく変化させようとしていた。彼は上院のパネルを「あらゆるスモークスクリーンの母」と呼ぶ。2003年イラク侵攻へと至る例の「嘘のつめあわせ」から注意をそらすために使われた、というわけだ。


祖国ロンドンに戻ったとき、彼は自身の賛同者たちから真実のチャンピオンとして迎えられた。イギリスでもそうだが、根拠なき理由から戦争を実行しようとし、国際法を蹂躙し、誠実さと正直さという倫理的スタンダードに楯つこうとする米国政権に向かって彼は果敢にも声を上げたわけだ。ハロウェイはジョン・ケリーが大統領キャンペーンの時にちょくちょく示唆していたにもかかわらず、ことあるごとに発言を避けようとした内容を敢えて主張した。曰く、保守的なアメリカは嘘に基づく幸福を追い求めている、と。政治的な溝はもはや左と右、急進派と保守派との間にあるのではなく、むしろ嘘と誠との間にある。より深いレベルで、権力闘争は誰が現実を規定し、それらの規定に世界規模の重要性を持つ決定の基礎をだれが据えるのかに関するものだ。


当然のことながらこれは新たな闘争ではない。権力を支配することで真実を操作したりコントロールしたりすることは古代トロイの時代からある。多くの主唱者はその正当性を誤った偽称に負わせ、中にはそれで世界のリーダーになる者もいた。とはいえ、現在の状態は神秘化の初期形態とは異なっており、とりわけ世界規模で起こり、そうなり得るというところで異なっている。小集団のなかで不正をなし、計算高い狡猾さによって自らの利権を守ろうとする程度のことではもはやない。我らが21世紀の「メディア支配」ではグローバルに釣り合ったドラマが必要だ―あらゆるテレビ局のまえで、あらゆる新聞において、そして数えきれないほどのウェブサイトで演じられうるものが。古代のメタファーで言うところの真実の神殿はいつわりの杖によって朽ちるのでも、陰謀やプロパガンダの重さの下で泥沼へと沈んでいくわけでもない。今まで見たどれよりも立派な、あらたな神殿が打ち立てられる。あまりに安定していて、魅力的で、あまりに多くの機能を収容しているから、ある瞬間にそれが嘘からなっているのかどうかという問いが浮上するほどだ。真実はそのものを疑うことからはじまる。操作する者は救世主となる。彼らの神話はもはや意識にまで貫き通ることのない現実よりも、より重要なものとなる。カール・ローブとその保存革命の建築家という地位を例にとってみよう。時代は政治家がその背後というよりもむしろメディア担当アドバイザーを保護しなければならないところまで来た。

これで半分。後半は次回。