アフター・ゼロ

Volume#18の序文の日本語化をRADウェブサイトに挙げた。

この号では現在流行継続中の「サステナブル」が焦点化されている。タイトルは「アフターゼロ」。いわゆるゼロエミッション云々だとかカーボンニュートラリティだとかいう「ゼロ」への規制やサステナブルの大合唱は問題にされているけど、それは手段でしかなく、それを経たあとにどんな社会を描くのかこそが重要だ、というのがおそらく「アフターゼロ」という名の意図。当たり前だ、とか思われていそうだが、にもかかわらず実際それはあまりなされていない。


こういう穏当な前口上が付記されている一方で、オースターマンによる序文は「サステナビリティ」によって建築家の職能が再度どう生きるのか、というものになっている。温暖化は他の火急的問題に比べたらさしあたっては大丈夫だから、京都議定書実現のためにアホみたいな金額賭けるよりは個別の対策にその何十分の一の予算を充てた方がいい、という冷静な提言をなすロングボルグのような意見を想定するなかれ。この文章のなんと野心的であることか。

地球と一緒に頭も冷やせ!

地球と一緒に頭も冷やせ!

この文章の個人的裏タイトルは「明日から使えるサステナブル」だ。歴史の終わり以後の建築家にもういちど未来をプレゼントしてくれる「サステナビリティ」(「このままでは」地球が危ない!!とかさ)ではあるけれども、それはしつこい多頭怪獣みたいなもので、ひとつを切ってもまた別の問題が生えてきたりしてしまう。人は将来を心配するけれど、実際にその将来がどういうものなのかを議論することはあまりない。ゼロエミッションやニュートラリティへの規制といったお題が本当に環境的問題を解決するのかどうかは正直もうどうでもいいと思っているようにも思う。「過剰なもの」への挑戦はその実社会の成長を前提とするものであって、こうした低成長期にその目標は結構つらい。というか矛盾してすらいる。とはいえこれで成長が再度やってきたら、それはそれで「挑戦」の方が忘れられておしまい。だから、というかなんというかそれは、ゼロへの規制とか言うよりも、いまこそ!都市状況をもっと空間的に再構成する必要がある!ということなのかもしれない。企業や権威の手に何となく渡っている資本主義的都市の打開、積年の問題となっている食糧生産とその配分に対処可能なモデルを生み出すかもしれない都市農業の可能性、こうしたことに建築家は空間的モデルでもって答えるべし。建築家の得意技じゃないか。しかもこの「サステナブル」の合唱の中、そのモデルは実現しやすくなっているかもしれない。最近よく言われる「共生」だとか、それに準ずる「風」な概念の肯定的活用によって。こうした語の再定義でもって、建築家はもう一度空間の政治的側面に介入しうるのだ、というもの。


ほほほ、と思うが、翻って日本ではどうだろう。何年までに二酸化炭素を何%削減云々、しかもそのパーセンテージが狂気的であるようなほぼ実現不可能な公的約束が善きこととして取られかねない現状にあって、周りを見れば「これで温暖効果ガス何%カット」といった定量的な文言しか出てこない。問われるべきは、空間的想像力の飛翔可能性だ。風が吹いたら桶屋が儲かる的サステナブルシステムを、サステナブルの名の下にどうやって売る?数字で示す?でもその数字自体が一体何を意味するのか誰にわかるというのだろうか?空間的モデルの説得可能性を成立させるためにどんなカードが果たして有効なんだろうか。オースターマンの意見はとても野心的で、とてもポジティヴな側面をとらえて私たちを鼓舞してくれるけれど、これがどのように運用可能か、ということは常に忘れちゃいけないなと思う。