上昇志向

建築文化の666号(2003年)「U-35建築家」特集に寄せられた森川嘉一朗の論考「建築家と上昇志向」が興味深い視点を提供している。簡単にまとめるとこうなる。

  1. 建築、あるいはデザインは「強者」の上昇志向をテーマにしてきている
  2. 建築家という存立様態は上の要素を含み込んでいるのではないか
  3. 現代において中心的課題は「弱者」の問題へとシフトしている
  4. 「強者」の上昇志向はこうした現在的視点にそぐわないのではないか
  5. なぜなら「強者」の上昇志向によって「弱者」がむしろ規定されるからだ
  6. 若手建築家の新しいあり方が謳われる中、これらの問題とどのようにつきあって行くのか

森川論の興味深い点は、「建築家」という存立様態とともにあるこの問題を「カーサブルータス」の「建築家特集」から展開するところだ。彼らはまさかそんな「クールでインテリジェンスな」ものとして自らが提示されているとは思わなかった。という。でも、そこには彼らの自意識を逆照射するものがあるのでは、と問う。強者の上昇志向を焚き付けることによって大手広告代理店的なメディアは商売をするが、建築家という職業は、実はそうした方法論と親和性が高いのではないか、と。

この論からどのようなことが言えるのだろうか。「若手」はこれを受けてどうしたらいいんだろうか?それ以前に「強者」の「上昇志向」とは厳密には、そして具体的には「誰によるもの」なのだろうか?クライアントの上昇志向なのか、それとも建築家自体のそれなのか。あるいは20世紀初頭のマンハッタンというように、誰と名指し得ない何者かの「集団的」上昇志向(物理的にも)なのか。これは「建築家は自分を売りたがる、けしからん」という問題じゃない。むしろ建築という集団的な現象から浮かび上がる、「強者」の論理によって「弱者」が規定されるという構図こそが問題なのである。

そう考えたときに問うべきはこうか。今「弱者」とは一体誰だ?身体にハンディキャップを持った人か?自らの家を持てない人のことか?30坪の敷地に建てられた住宅に「詰め込まれる」ようにして暮らす人のことか?「我こそ弱者だ、我に救いを!」この救いにこそ「若手」に残された道があるのか?多分、違う。むしろ問題なのは、依然人々の思考に根強く残る「ビフォーアフター」的なるものだ。「気づいていないかもしれないが、あなたの今暮らしている空間は、ひどいものですよ」と「建築家」はささやく。「でもご安心。私の手にかかれば、こんなにすてきになりますよ。あなたは人生の勝利者になるのです。」

結論は二つ。一つめは、これまでどおり、この甘いささやきの精度をあげること。「弱者」へのまなざしは思っているよりも「使える」ことがわかってきた。なんだかんだいって、みんな「ビフォーアフター」的なるものが好きなのだ(「目が二重にさえなれば、私の人生は変わる!」)。二つ目は叫ぶこと。こんな風に。いもしない「強者」の幻影におもねることをやめろ。そして咲きもしない花の青写真を見当違いの種に強いることをやめろ。誰に叫ぶ?誰にもだ。曰く夢という奇妙な催眠によって「強者」の幻影を生み出し、彼に奇妙な「花」の栽培を期待することをやめろ。すでにそこにある花の見え方を変えること、そして価値基準を変えることをはじめろ、と。そして自らに。これが建築でできるのか、それを考えることをはじめろ、と言うこと。