景観問題の使い方

-
世の中にはたくさんの守られるべき「景観」が、そして残されるべきたくさんの「町家」があるそうだ。景観や町家は今窮地に立たされている、らしく、それらを救うことこそ私たちの貴重な文化の保存となるのだ、とのことがしばしば言われている。こうしている間にも開発の手はじわじわと伸び、貴重な資源が無下にされているんだ!と。

  • -

なるほど。でも、誰もそんなこと言わないけれど、景観や町家を保存する必要性は本当にあるのだろうか?いや、それ以前に景観や町家を保存すると言ったとき、一体それは「どういうこと」で、「何が」問題になるのだろう?それから景観町家が問題とされていることの帰結とは?景観や町家を対象とした問いかけがこれらを考えることなく、保存する/しないにのみ帰着してしまうとしたらそれは問題だ。かといって「その上でどう建てる(つくる)か?」を問題にすべきなのかというと、その結論が多くの人々にとってほんとうに益をもたらしてくれるのかどうか、いささか心もとない。じゃあ「見落とされている」景観の、町家のすばらしさを語りあう?この視点はとてもいいと思う。でもその後は?讃えて終わり?それではちょっと残念だ。

    • -

そこでひとつの提案が。「景観問題」を通してどのような社会が見えてくるのか、と問うてみるのはどうだろう?つまり、景観や町家が問題にされている、という状況が一体何によってもたらされ、何を与えてくれるのか、そして今後何がどうなったらいいのかを考えてみるのだ。今私たちが見ている景観や町家は、私たちが長い時間をかけてなしてきたことによって「残って/されて」いて、私たちがなすことやなしたいことによってその存続が困難になり、その帰結として景観町家問題が起こる。故に、景観や町家の問題は根本的なところで、私たちが生きる社会というもののグロテスクな現れだと思うのだ。その現れを前にして私たちに必要なのは、個別の輝きに逃げ込むことではなく、そのグロテスクさをスケッチすることではないだろうか。景観町家問題は、今私たちがどのような社会に生きているのか、を考えるためにこれ以上なく「使える」ものだ。そして「理想の未来」は、唐突に用意されるものではなく、その膨大なスケッチの向こう側に浮かび上がってくるものだと信じている。