ひとりREADTANK3

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More fundamentally, it is about living together and society. Mass residential construction is often also called collective residential construction, but there is a meaningful difference between the two. Mass residential construction seeks to solve a problem and in doing so models the population in an effort to confirm the status quo. It does so at best at a higher material level. Collective residential construction suggests a form of organization with a political dimension, interaction and group dynamics. The difference between the masses as economic data and the individual person as a political being is crucial here.

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より根本的に言えば、それは共に住むこと、そして社会ということに関するものだ。大量居住建設はしばしば集合住居建設と呼ばれるが、この二つには大きな差がある。大量住居建設は問題解決を試み、そうすることで現状を確認するという目的において住民をモデル化する。最善の、最も高い物質的なレベルでそうするのだ。一方集合住居建設のほうは、政治的側面、相互干渉あるいは集団力学を伴った組織形態を示唆している。経済的データとしての大量と政治的存在としての個人との間にある差はここにおいて重要である。


It is at the block level that another organization of society begins, that resistance can be offered to values and norms imposed by government authorities and by society as a whole, that the experiment gets a chance. It is the level at which personal choices can be effective.

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それとはまた別の社会組織が始まるのはまさにブロックのレベルにおいてであり、行政その他の権威によって、あるいは総体としての社会によって押し付けられた諸価値や規範に沿って住居が提供されるのもブロックのレベル、また実験的なことが実現のチャンスを得るのもまたブロックのレベルにおいてである。ブロックとは個人の選択が実現されうるレベルなのだ。


Here the term ‘resistance’ is involved. The very notion of ‘resistance’ (hello 1970s, are you still there?) was discredited in the 1980s, but might be more positively appreciated these days. It was and is a vulnerable position, one connected with ideas on ‘the margin’, that can easily be swept from the table in stating we must concentrate on ‘the real’ issues like sustainability and the future of this planet, to name but two.

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ここに「抵抗」という語が関与してくる。「抵抗」(ハロー1970年代、まだそこにいるかい?)というまさにその考えは1980年代に疑義を呈され、にもかかわらず今日ではより肯定的に評価されているようにも感じられる。それは不安定な地位にあったし、いまでもそうだ。だから「余白」にまつわるものだとされがちで、サステナビリティだとかこの宇宙の将来だとか(とりあえず挙がるだけでも)いった「現実的な」問題に集中すべきだとかなんとか言われつつ議論の俎上からおろされてしまいがちなのだ。


By acknowledging the political dimensions of mass housing, the city fabric’s ‘openness’ becomes an issue once again.

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大量住宅の政治的側面を知ることによって、都市という織物の「オープンさ」はもう一度問題となるのだ。

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まず、「大量」居住建設と「集合」住居建設とがどうちがうのか?

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  • 大量住居建設(mass residencial construction):問題解決への試み
    • 現状認識を目指し住民をモデル化する。物質的なレベルで。
  • 集合住居建設(collective residencial construction):組織形態の示唆
    • 政治的側面、相互干渉あるいは集団力学を伴った組織形態を示唆している。
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「経済的データとしての大量(=mass)」と「政治的存在としての個人(の集合=collective)」というちがいが重要。そのちがいは「受動的客体/能動的主体」と言い換えられる。そしてこのちがいを踏まえるからこそ「ブロックレベルで解決策を考えなければ」ならないのである。じゃあその「ブロックレベル」とはどういうものか。

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  1. 上とはまた別の社会組織が始まる
  2. 行政その他の権威や社会総体によって押し付けられた諸価値や規範に沿って住居が提供される
  3. 実験的なことが実現のチャンスを得る
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ブロックのレベルで「個人の選択が実施されうる」というのは「実験的なことが実現されうる(3)」からのみではなく、住宅供給の基準となる諸価値や規範といったもの(2)を集合がどう組織されるか、というところから考え直す(1)ことができ、それを前提とした上で(3)がくるからだろう。ポイントは(2)を受けた(1)であって、これはひとつの規模の問題なのだ。

ブロックのレベルで考えるということは、物理的にブロックのレベルまで対象を絞り込んで問題解決を容易にしよう、という話ではない。その言わんとするところは、「マス」を「集合」に、つまり「経済データとしての大量」を政治的側面を持つ個人の集合としてとらえ、それが組織としてどう構成されその帰結としてどういう制約を受けるのかを、ブロックという具体的(かつ抽象的)なレベルで考えようとする試みなのである。都市のオープンさが胆になるという最後の文は、まさにその結果として「個々人」の参与可能性がどう担保されるのか(=「レジスタンス」と「オープンさ」)が重要になる、ということを述べている。受動的客体と能動的主体のあいだ、受動的でもあり能動的でもあり、客体でもあるし主体でもある、そういう集合をブロックというレベルで思考して行くという試みなのだと思うのだ。