建築とアート

保坂健二朗さんがキュレーションを担当された「建築はどこにあるの?」展のカタログに収録されている南後由和さんによる「建築物とインスタレーションの離接運動」という興味深い論考を受けて。


この論考の中で南後さんは一言も「アート」という単語を置いていない。「建築とアートとが接近している」という事がしばしば聞かれはじめ、そしてその発言を象徴するようなこの展覧会のカタログにおいて、「アート」という単語を使っていないという意味は結構重要だと思う。


その代わりに南後さんは「インスタレーション」という言葉を使う。それは「絵画でもない、彫刻でもない、建築でもないという否定的定義の連鎖によって説明され」るものであり、「従来の枠組み」から「こぼれ落ちる動きを「作品」へと送り返していこうとする営み」のことだ。

建築家にとって、インスタレーションとは最終産物ではない。それは美術館での展示にしろ、屋外での展示にしろ、作品というかたちで切り取られていることはたしかだが、複数のプロジェクトを横断して現在進行形で変容しつづける、建築家の思考のプロセスの鮮やかな一断面である。そこでのイマジネーションや経験が次の建築物へと転化していくこともあるだろう。インスタレーションと建築物とは、互いに離接運動を繰り返していく関係にある。


そして面白いのはここ。「建築家とは、物ごとの原理的知識を蓄え、事物が生成し、認識され、運動が始まる出発点を、諸技術の統合によって設置(インストール)していく職能を指している。」詳細な議論は当該論文を当たってもらいたいが、つまり、インスタレーションとは建築家の職能をなぞりなおすものである、ということ。


この論考が目指すところはこういうことだ。建築とアートとの近接をことさらに謳うのではなく、アートのいち表現として認識される「インスタレーション」を補助線として、建築家の「固有性」をそのまま「アート」の領域へとスライドさせ、かつ、その「芸術性」を担保にして「建築家のインスタレーション」に建築という分野の内破と再構成の可能性を見るのである。

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以上が僕の形式的な読み。内容に関して思うところはこうだ。その主体は果たして建築家でしかあり得ないのか、ということ。縮尺の、素材の、構造の、形態の、量感の選択や組み合わせはひとり建築家によってのみ正しくなされるものであるのか、ということ。それは「正しさ」の問題だ。


「建築とアートとの接近」が建築家のアーティストとしてのふるまいの正当化のためになされているとしたら、否定できはしないが、少し残念なことだ。むしろ建築的思考の所有者が建築家のみならず他の人々にも開かれていること、これを示すがためにそれを謳うことができたらな、と思う。