パチンコと公共事業

少なくない数の人がひとところにあつまり、長期的に、絶妙な手首の力加減で淡々と玉を穴に入れ続けるという作業が全国津々浦々で行われており、その出玉によって得られるお金の額が変わる。パチンコだ。そしてこのパチンコと公共事業は結構似ている。パチンコ店を現場に、打つ人々を作業員さんに、パチンコ玉を建材に、出玉を作業成果にとらえてみるとよい。違うところはモノができるかできないか、そしてその事業を国が行っているか民間が行っているかだ。



今回のお話はもろもろの政治的要素をまったく顧みず、単純に表層だけを見比べておりますのでご了承。


もうハコモノは「いらない」! でもなくなると地元の建設産業従事者はおまんま食い上げだ、という。だからそのハコは「いる」ということにする。無駄なハコモノ事業も地元がおまんま食うために必要なんだという開発への肯定を聞くと、「穴を掘って、また埋めるような仕事でも、失業手当を払うよりずっと景気対策に有効だ」という誰かの言葉というか冗談が不気味な現実味を帯びてくるし、その穴堀の最適例はパチンコなんじゃないかという思いがムクムクと湧いてくる。



パチンコは玉を使って玉を増やす。可逆性があるというか、使う玉と増える玉は同じ玉だ。それは土を掘り土を埋める作業と似ている。でもその二者択一を迫られたら多分みんな土より玉を選ぶだろう。勝てばお金がもらえるし、射幸性をあおってくれるし、室内で快適だからだ。競馬とも、競艇とも、カードゲームとも違う。スロットは割と近いかも。一方建材を使って建物をつくるという一方向性は「ハコモノ」と批判される。ハコモノは完成という目標があるが、パチンコにはこれといった目標がないので、もし目標が欲しかったら、玉の移動がなぜか発電になっているだとか、そういうへんなギミックをつければよいだろう。



すごく当たり前だけどパチンコは民間事業なので、そこに落とされたお金は地元に回っていかない、とされる。地元が(実は)潤わないというのはまあ公共事業でもそうじゃないのという話を聞きそうなので、公共事業が地元を潤すというストーリーも全く疑う余地がないわけじゃない。パチンコ店がご近所さんのためになることを(結果的に)していることだってあるんじゃなのとも思う。でもこれだけ全国津々浦々で、多くの人が取り憑かれたように玉を増やしたり減らしたりしまくるサマは民間の「公共」事業だと言えはしないか? パチンコより公共事業!だとか言うよりは、公共事業がパチンコ的なる仕組みから学ぶべきものがもしかしたらあるんじゃないか?