木とコンクリートのはなし1

長くなりそうなので(引用が長い)分けて書きます。まず最近気になったこのニュース。今回の話は主に1】。

  1. asahi.com:大阪城 「最先端」のコンクリート製
  2. SankeiBiz:大阪城を歴史テーマパークに 大商が提言


ときに大阪城がRCで再建されたのは昭和6年(1931年)。で、こうある。

天守閣は、耐火性に優れ、当時としては珍しい鉄骨鉄筋コンクリート製となった。それを採用した理由について古川(註:古川重春)氏は著書「錦城復興記」の中で「本天守の如(ごと)き永久性を持つ記念建築が時代の寵児(ちょうじ)たる此科学的最強にして且つ最も経済的なる鉄骨鉄筋混凝土(コンクリート)を主材とせずして如何なる材料を他に求むべきや」と書いている。


古川氏、強気だ。「如何なる材料を他に求むべきや」とある。木とか石なんてもう眼中にない。


造型と構造と―山本学治建築論集〈2〉 (SD選書)

造型と構造と―山本学治建築論集〈2〉 (SD選書)

山本さんの思考にあたりたかったらこの本。2巻目からはじめよう。


ここで構造史家山本学治の研究をちょっと参考にしてみよう。RC造が日本に到着したのは1900年代ヒト桁台から。佐野利器によるRC造の講義(があったという)記録が残っている。大阪城RC化は、1920年代の関東大震災でその耐震性が実証された10年後のことで、実際そのおかげで戦火をくぐりぬけることができた。

大阪城天守閣の宮本裕次・主任学芸員は「秀吉が目指したように、その時代における最高の部材を使い、最先端の工法を用いるべきという信念だったのでしょう」と話す。


実際古川氏の「此科学的最強にして且つ最も経済的なる鉄骨鉄筋混凝土(コンクリート)」ということを言っているのを見ると、設計者の意図としてはそうなんだろうなと思う。でも、このときの「最高」っていったいなんだろう?


宮大工西岡常一の遺言

宮大工西岡常一の遺言

西岡さんの話が抜群に!いいんですが、本としてはちょいとムラっけがあります。


ときにこの本。法隆寺解体改修の棟梁もつとめた宮大工西岡常一お弟子さんのインタビューがここに!)による口伝。彼は薬師寺の改修を手がけているのだが、このとき(昭和46年1971年)世界的な宝薬師三尊をまつるんだから内部は耐震耐火のコンクリートで覆えとの指示が出た。彼はコンクリートが「村松禎治郎さんに聞いたら百年しかもたん」ことを指摘したあとでこう言う。

「コンクリート工法を取り入れておかんと、二百年三百年後の修理のときに手が出せなくなってしまう。それでは困るので最先端の考え方を取り入れるんやと役人なんかは言いますが、われわれの仕事はそんなもんやない、それは職人を侮辱した考え方です。職人というのは木の削り跡を見ることで道具のうまい下手まで考えますし、ふぞろいな削り跡から修理の手が何回入ったかも考えます。もちろん釘跡ひとつから元の形を類推するのです。いま知恵を尽くして完璧なものを造っておく――そういうことが文化なんやないんですか。」


ここにも「最先端」が。役人さんは「最先端」がお好きか? とまれ、この話が木造とRC造との組み合わせに対する批判であることを差し引いても、RC造と木造に対する異なった意見が出てきて面白い。ただ個人的に思うところとしては、この二つにおける「素材」に対する相違のようなものが出ているんじゃないかということ。それに関してはまた今度。