類推と建築

rep04 TAKASHI SUZUKI / BAUを事後的に振り返ってどう思ったかという文章をRADのウェブサイトに挙げた。


この作品では、建物に見えるスポンジが写っているということがポイントではなく、それがモノとなっていることがどんな知覚を引き起こすのか、がポイントなのだということを書いた。そういう意味でこの作品を前にしたときの、見る人それぞれが持つ「感じ」が一番大事。「それ」に向けて鈴木さんはいろんな層でいろんな決定をなしている。それがどういうことかを少し考えてみた。



7月4日にはギャラリートークもありました


とはいえ、じゃあ映されているモノはどうでもいいのか、というとそんなことはない。彼はいかなる建築物も建築写真も参考にせずこのかたちに決定を下している。この作業がまず興味深い、ということも書いた。言ってしまえば彼はかたちを「なんとなく」決めており、なんとなくと聞くと「安直な!」とも思ってしまいがちであるのだけど、既にある具体的な建築物を真似ず、しかもそれを数百(現在も増えているとのこと)も作り続けているというその各々の決定は注目したいところ。


ひとつ思うことは、これは既存の建築物から「類推」されたものである、ということ。人は嫌が応でも日々建築物を見ている。物理的にも見るし、写真でも見る。膨大なかたちを毎日見て、それをおぼろげに覚えている。このメカニズムを都市のレベルで提示してくれたのがケヴィン・リンチの「都市のイメージ」だったとしたら、鈴木さんはそれを「建築物を知覚する状況」一般を対象にして実験しているのかもしれないなと思う。


各々のかたちには、今まで鈴木さんが見てきたモノのかたちや構成が凝縮されている。そして、それが数百という機会でもって検証を待っている。それは鈴木さん個人の操作ではあるのだけど、それを通して人が建築物を知覚するということに対してこの作品は何かを語っているようでもある。だからスポンジのこの積み方がどれどれの建物に見える、という「表層的な」見方のまま終わってしまうと、この建築に見える図像は、逆説的に建築から遠ざかってしまうような気がするのだ。