Volume#24「Neuropolitics」ヤク

volume#24は「技術」「環境」(参照:Volume#24 Expanding Environmentalism)「コミュニティ」の三部に分かれていて、今回は「コミュニティ」部にまつわるC-Labによるテキスト「ニューロポリティックス」を読んでいる。READTANKで取り上げるのが先になりそうなので、少しここに。


部分訳

雇用者の精神は新種の労働の出現(今日私たちが「クリエイティヴ」と呼んでいるものを考えてみよう)を通して変化させられる。企業管理の拡張だったり、それに伴う生産性の支配的様態としてのコミュニケーションの誕生だったりも同じことだ。(ティモシー・)リアリーはLSDを、こうした新たな経済的ロジックによって行われるマインドコントロールに対する対抗手段として、そしてあまねく生が潜在的には労働としてコード化されてしまうシステムにおける社会的諸関係のルーティン化に対する対抗手段として理解していた。


幻覚剤(LSD)の使用は外側から押し付けられる規制に対抗する手段だったのだ。ここで出てくる「ティモシー・リアリー」とは「ニューロポリティックス(=神経政治学)」なる語の発明者である心理学者。「政治的問題は脳化学に基礎を置く集団心理の問題に従って解明され得る」とし、この脳化学を変化させることは政治的関係性を変えることにつながるのだと述べたのだった。


神経政治学―人類変異の社会生物学

神経政治学―人類変異の社会生物学

はッ!また山形さん!


「ニューロポリティックス」から引用。

権力に対するリアリーの不信は、幻覚剤の使用を自己ルールの表明や神経化学の調整を通して社会的コントロールの影響を緩めることとする彼の視点と一貫している。セクシュアリティだとか、スピリチュアルのオルタナティヴだとか、明らかにタブーの自己探究だとかであると同時に、LSDはひとつのカウンターカルチャー的抵抗なのだ。公然と政治的ではないこの計算された享楽主義は、新たな支配システム下で行われる生の秩序化に対立する反逆なのである。


ところで、これがなんでコミュニティの話なんだろう? 序文から引用。

コミュニティの「大地へ帰れ」感覚は、共有、賛同、そして共同の現代的価値観(エトス)において自らを強調している。対照的に、60年代サイケデリック文化を中心とした集合の感覚は異なった基本理念を備えており、それは端的に言えば、個人的意識の探究は他者とのより意義深いインタラクションのために必要なものだったということだ。


上の引用では60年代の集合感覚として二つが例示されている。都会生活と消費社会を捨て、田舎で自律的な生活をしようとする運動であり、アメリカで1960年半ばに起こり、1980年までに移住者は100万人に達したとされる「大地へ帰れ運動Back to the land movement」のような価値観の共有。もう一つが、ここで述べたようなドラッグスによる内省(個人的意識の探究)経由の「つながり」感覚だった。


集合感覚とは「みんな」の問題だ。そして建築は、とりわけそれが構成する都市は、避けられずある集団性(「みんな」?)を相手にする。でもこれと今回の話との間にはちょっと差があるようにも思う。じゃあ上の話がこの号においてどう建築の話に接続されているのか、これをまた次回考えたい。