Volume#24「YES, BUT」前半

前回「ニューロポリティックス」を参照にして二つの「共同体」を見た。「大地へ帰れ」運動のような共有ベースと、まさにその文章で語られていたドラッグの使用を通した内省ベース。この二つ。前回の話のポイントは、後者がある支配的ロジックへのカウンターになっていたのだった、というところにあった。


これがじゃあどう建築の話につなげられているのか、ということを見るために、ここで同じ24号(同じくくり)におさめられたヴィニーマースのインタビューを見ていこう。まずはジェフリーによるリード文

建築家はほとんど無意識のうちに最新の技術的現象に引きつけられる。ちょうど彼らがネットワーク社会を歓迎したときのように。と、このような分野的に広くセレブレートされている反応とは対照的に、MVRDVの共同設立者であるヴィニー・マースはここ数年間ポスト地理学的状況が都市デザインにどんな意味合いをもたらすのか思考している。彼は自身の事務所やシンクタンク「WHY FACTORY」を通して着想を得た、新しい都市計画のプロトコルを背景にしたネットワーク社会理論をテストしている。マースはこの未来のアーバニズムを本質的な一般参加型のものとして描いており、その共同体は一つの共有された理想に沿ってコミットするグループというよりは、都市の関心が集まった総和である。彼は非献身的な「もし〜ならば WHAT IF」世代を打開し、協力的であり何にでも疑問をもつ「うん、だけど YES, BUT」的姿勢を受け入れることを目指している。


で、以下本文。長いので前半。

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YES, BUT

ジェフリー・イナバとエリザベス・クラスナーによるヴィニー・マースへのインタビュー





イナバ

建築家はネットワーク社会という観念をすっかり受け入れ、それと同時に、物理的地理学は現在的都市のいくつかあるレジスタ(記録されたもの?)のひとつであるという考えを受け入れてきました。その変遷を年代順に整理するのみならず、都市のメタデータ処理技術に関わる者として、あなたは「ポスト地理学的」都市が存在しうる地点に私たちは到達していると言えるのでしょうか? パワフルなコンピュータ技術は建築家が都市の設計に使用することができる道具や方法論へとどんな影響を与えるのでしょうか? 


マース

その答えはノーです。ポスト地理学的都市はリアルな物理的場所を持たない都市です。終わりなき、出会いのバーチャルな海です。しかし私たちはいまだ物理的な場所に結びつけられている―出会うための、つながるための、交換するための場所を―たとえそれらがより一時的なものだとしても。おそらくそれは新しい地理学です。ということで、私たちは二次元ゾーニングという古典的な計画ツールを超えた都市空間の実現について議論することになる。ひとつのアプローチとしては、都市計画における集合的課題が生まれてくるボトムアップシステムをあきらめてみる、ということ。例えばデータスケープは、個々に入ってくるデータの塊として共同体を思い描くことによってひとつのロジックを極端にしてみたわけです。その他のツールとしてはプロダクト性能の発展でしょうか。洗練されたカスタマイズを拡張する、私が言うところの「iMovement」―iPodからIKEAにいたるすべてのもの―です。このようにして、技術に起こる個別化は共同体の発展を促進しうるわけです。このロジックを私が言う「iPlanning」へと移し替えれば、計画のさらなる洗練が生まれるでしょう。住宅へも、近隣への要求へも、あるいは公共アクセスの要求へも適応可能です。


イナバ

都市計画というコラボレーションに対抗して「iMovement」という個人主義を戦わせるというよりも、あなたは「iPlanning」がカスタマイズや消費主義へ参与することによって生まれる多様性を掛け合わせるような都市戦略を提案しようとしているように見受けられます。


マーズ

都市は世界中で拡大しつつあります。私たちはより多くを欲し、より多くをトレードし、それによってより多くを占有している。より多くの場所に住み、その「より多く」の周りにはさらなる「より多く」が望まれる。それがために、不動産はある種のディスポーザルな技術となってしまいました。ノキア現象です。私たちは住宅をコンピュータや電話のように消費します。それらを愛していますが、一時的にしか使用しない。そしてその結果、風景は今やあまりにも流動的になり、もはや「からっぽ VS 充満」という対立はなくなっています。このようにして不動産はほとんど「超現実な所有地」になっている。『Spacefighter―the Evolutionary City Game』で私たちは個人主義文化に対応するものとして、このモバイルな共同性への関わりを提唱しました。


イナバ

一般参加型の計画に関わるためのツールやプロトコルはどのようなものでしょうか?


マース

計画なる私たちの考えを変化させるような、極めてありふれた要素をすでに見ることができます。例えば「Google Earth」のズームツールのようにシンプルな革新には、その場所での都市への適応性がある。一目でデータを大小のスケールに文脈化し、可能な義務目録を示唆する。それは考えているよりもずっと重要な発明なのです! 私たちはそれを『Zoomed Planning』に翻案し、大事な一歩を前に進めたのです。

建築の実践という観点から見れば、私たちの主なツールはリサーチです。新しい都市を未来に描き、いかに見ているものをスタディするのか、そしてどうやってより深化していくかを考えます。私たちの本はすべてそういうことを語っている。本は私たちが夢に描く仮説に基づいた都市の断片を構築するわけです。『KM3―Excursions on Capacities』においては、マルチタスクのような現象を伴った個別的な規模でどのように多様性の絶対的最大化が起こっているのかを詳しく述べることで、それをつきつめたいと思いました。使用可能な技術を使いながら、私たちは文化や気候やスケール等等の多様性を最大化しようとする。これはある種で多様性なしにコカコーラ社会という平等性に溢れた世界に至り得ることを示しているのです。そのような均質性という方向性に対する反応としては、社会に関与し、技術的手段を通じて可能となる多様性の生成方法を探究することです。緻密化densificationは多様性への一つの戦略、そしてコカコーラ的感覚からの逃走であり、それはつまり都市だと言えます。『Spacefighter』は平等に流動的な習慣において、建築的都市的なアプローチを最適化しようと―変化しうる社会や都市において、私たちのアーバニズムを加速しようと―するのです。


クラスナー

拡大して考えたときに、「グリーン」という考えを生産的なものとして、あるいは集合的な計画への考えを組み立てるためのものとして再考することは可能なのでしょうか? そして「Evolutionary City」にLEEDのようなプロトコルをいかにして適応するのでしょう?


マース

おかしなことに、この個人主義の時代に「グリーン」は都市にも影響を与えるような力のひとつになっています。現在製作中の最新書籍『Green Dream』で、グリーン運動における数々の縮減主義を指摘しました。アーバニズムはあるひとつの要素や型に落とし込めるようなものではありません。その性能は住宅や都市ブロックのようなスケールで伝達できるようなものではない。道路、配管、エネルギーネットワーク、などなどのことを考えねばなりません。総体として考えられねばならないわけです。それはちょうど多くの小さな構成要素によって動くモーターのようなものです。

LEEDには強く苛立っています。その評価基準がいち建物の規模に基礎を置いていること、これはまあ仕方ない。むしろ問題なのは、現時点で技術が適応されるか否かが決められるにすぎない、ということです。都市総体のほうがより重要なのですが、それを忘れて最も愚かなで醜い建物がLEEDプラチナムアワードを受けている。本当にうんざりします。というわけで、「Evolutionary City」はグリーンな発展という今風の考えに対抗しています。より大きな規模を考え、モビリティや多様な建物の性格やその性能を考慮に入れる総体的な反応です。ミース的な建物が実質的に窓の無い省エネビルのお隣さんにもなり得るわけであって、それこそ都市がそうありたいもの―多様性―なのです。


イナバ

ある意味、あなたの関心は60年代カウンターカルチャーの実験の延長上に位置づけられるかに見えます。物事を理解するための新たなモデルが発展してきたいくつかの範囲は、あなた自身の探究の範囲(例えばエコロジー、テクノロジー、そしてコミュニティ)と共通点がありますが、あなたの仕事はこうした関連のリサーチに反応しているのでしょうか?


マース

カウンターカルチャーが「ノー」の突きつけている場面を最近見なくなっていますが、その「ノー」は、なにか新しいもの―あるいはエキゾチックだったり、予期しえないものだとか―を見つけるための優れたモーターのように働きます。60年代は私たちにポップカルチャーカウンターカルチャーとの混合物を与え、それと同時に、大規模近隣計画のような信じられない都市の副産物も与えてくれましたが、そのいくつかは真のモンスターとなってしまいました。そのとき生まれた個人主義、その名の下に提唱された自由は、大規模計画への欲望と軌を一にして、集結することなくある意味でアナーキーへと至ってしまったわけです。60年代以降、私たちはこれを調整しなければならず、今がおそらく技術を通して個別の社会を促進するという狙いに反応する最後の瞬間でしょう。後になってからの判断の利点やインターネットのような技術的ツールの信じられない力があれば、私たちは彼らが共同体のスケールでもって提唱する個人主義を適切に調整することができるのです。

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つづく