いわゆる正論にはあんまり神は棲みつこうとはしない


石山修武『住宅道楽』つづき。

人間の幸せは一個の家族に自閉するものではなく、地球上のすべての人間に向けて開かれていなくてはならない。そういう類のヒューマニズムにフラーは自分を置くのだと宣言もした。貧しさのために自分の娘を亡くしてしまったときに、そう決断したのだといっている。
この考え方は今でも堂々たる正論であろう。しかし、今ではわたしたちは、えてして正論には細部が欠ける嫌いがあるのをしっている。そしてわたしたちの生活は、さりげない細部の連続であることも知った。神は細部に宿りやすいことも知っているから、どうもいわゆる正論(イデオロギー)にはあんまり神は棲みつこうとはしないのだろうと想像してしまう。
だから、フラーのドーム理論が人間の住宅に適用されることが少なく、軍事用のレーダー施設などに多用されたのも、今では納得することができる。(中略)どうやら人間の生活はひとつの明快な理論では枠づけられぬ、強い複雑さを所有しているらしい。(p92)


「アンチ住宅産業!」というのも「DIYでいこう!」も正論。上の言葉を受ければこういう文言や運動にも神は宿りづらいことになる。今まで住宅産業に頼らずDIYですごい建物を造った人はたくさんいたし、石山さんもいくつかの例を挙げている。でも、みんなラディカルすぎた。大抵のひとは「家族の好みが・・・」「仕事が・・・」「税金が・・・」「腰が・・・」とか、そういうラディカルとはほど遠いさりげない細部の連続によって生きている。<生活>という「うすのろ」に、ひとは「無理だ」と言わされる。住宅産業は「うすのろ」をいかに手なづけるかで勝った。建築家は「うすのろ」を忘れさせようとして負けた。


強い施主は「うすのろを乗り越えて」セルフビルドした。でも多分「うすのろ」の中にはそもそも「家をなんとかする」ということが入ってたと思うのだ。ところが買った家には大抵手を出す隙がないので、しなくなった。日曜大工とかいうと車庫とかベランダとか犬小屋とかになるのはそのためだと踏んでいる*1。ということで世にはぬくぬくとした住宅購入とマッチョなセルフビルドしかなくなった。「まあまあな住宅購入」と「まあまあなセルフビルド」がなくなった。家なんて半分くらい建ててもらって、あとの半分は自分で作ればいいんじゃないのかと思ったりする。建ててすぐの家なんて半分くらいしか使ってないだろうし。

*1:今パラパラ読んでいた「ドゥーパ!」の特集がガレージ、パーゴラ、駐車場のペービングと見事なまでに家の「外」だった程度のこと。そうじゃない!というご意見募集。