Hyslomのこと


雑記。


6日の土曜日はLABORATORY aka radlabにて映像上映中だったHyslomによるパフォーマンスがあった。ヘルメットを被ったメンバーのヒトリが頭をガラス箱につっこみ、LABORATORYのベランダからロープ伝いでモノをそのガラス箱にぶつけていく、という映像を撮影しそれを同時中継する、というもの。文章にするととたんによく分からなくなるが、こう説明する以外にないので残念だ。とまれ、この「超至近距離でやっていることをわざわざ中継する」ことを魅力的に感じてしまった。すぐそばでやってるんだから見に行けばいいのに。これってどういうことなんだろう。


Hyslomとは10月30日にお話をしていたのだが、このときの話のネタは彼らが撮りためた「Documentation of Hysteresis」という開発現場を舞台にした映像(上映しているのもこれ)で、このとき「カメラのレンズを通すこと」についてあんまり聞かなかったことを悔やむ。6日のとはちょっと毛色が違うような気がする。同じ30日にはニュータウンや団地に明るい建築家の吉永サンを招いて、氏の解説を交えながら半世紀程前のニュータウン開発映像を見てみたりした。「開発現場にいあわせる人間の身体」の映像ということでこの二つには共通点があると考えたからだ。


「建築とアートが云々というあの話か」とも思われそうだが、あんまりどっちともつかない話になった。例えば。半世紀前の開発映像の中で、単純労働者の身体はずいぶんと「いきいき」しているように見えた。そういう見方をしてしまった感もあるが、現状だと現場の作業そのものが単純化して、業態ごとにこまかーく分断されているから、クロスを貼る身体は、プロのクロス貼りとして、クロスを淡々と貼っていく。壁は立てないし、ペンキも塗らない。そういう種類の身体も映像の中にはもちろんあったのだろうけど、最も目についた労働者の身体は、そういう熟練という「ルーティン化」から免れているような印象があった。やってることは一輪車に生コンを入れて猛ダッシュするという超ルーティンワークなのだけど、そのはっきりいって「素人くささ」がなんとなく環境とすり合わさっていくグルーブ感みたいなものがあった。


Hyslomもそういうところに面白さがあって、「初体験以上マンネリ未満」の絶妙にグラデーショナルな身体と環境との変化していくすり合わさりがとってもグルービーだと感じる。そういう人間の身体が作っていく風景があるんだと思わせてくれる。彼らは開発現場という完成とともにその姿を消す超テンポラリーな都市の余白で遊んでいる。そうはっきり言ってしまうとなんだか運動家の活動みたく見えるが、彼らはそうじゃないと言う。その真意はさておいても、個人的にはそんな「余白」の風景が、彼らの身体ごとうねうねしている、ということにとても面白さを感じている。彼らの身体ごしに見える風景がある。


そういう意味では彼らの生身の身体は出来の悪いカメラと似たところがあるのかもしれない。ブレブレで撮った風景がなんとなく新鮮に感じるように、彼らの身体がそこへすりあわさって、逆に場所のほうがすこし表情を変えたりする。ときどきえらくくっきりと撮れたりもする。記録精度の高さをひけらかせばポスターのように素通りしていくし、その劣悪さをひけらかせば興ざめになる。Hyslomの「出来の悪さ」はその間にあって安定しておらず、その両極を「獲得しない」魅力みたいなものがあるなと思った。