タウンアーキテクト2

唐突にまたはじめますね。この前、「市民を代表して決めるひとをあらかじめ決めておいて、そのひとに決めさせる」決定のモデルどうなんだ、ということを言ってみた。で、今日はそれに関して面白い「そうじゃない」モデルスタディがあった、という(聞いた)話。


端的に言えば、「「代表」抜きに「みんな」で決めようとするとどうなるか」ということ。みんなが端末を持って、ある問題に対して自分の意見を述べていく、でそれをうまいこと集約するシステムがあって、それが妥協なライン提示してくれる。理想はこんな具合か。うまくいきそうな気配は微塵もないし、ゆえに誰もわざわざこんなことやろうなどとは思わなそうだが、「あった」と聞いたくらいなので、同類のこころみをやった事例があるらしい。確かアメリカだと聞いたが、あるまちづくりワークショップに1000人くらい(!)の人が参加したときの話。


その1000人をいくつかの小グループに分け、全体的に出されたお題に対してそのグループ内での結論を出す。各グループにはひとつのパソコンが置かれていて、会場中のパソコンがネットワークでつなげられているので、各決定が集約されて全体的な決定が導かれる、というもの。その1000人がさらに大人数を「代表」してない保証は無いが、しかし1000人くらいの規模はもう「まち」の「代表」のレベルを超えてるだろうなと思った。問題の集約システムの内実はもとより内容についてはまったく分からなかったので、誰か知っている人がいたらぜひ教えてほしいです。


ということで、「代表」モデルとは別に、「集約の仕方をデザインする」モデルもある、ということでした。というか、よく考えるとなんで「市民を代表」するかというと、専門家の決定に従うんじゃなくて、「まちはみんなのものだ」という言い方がある時期からされるようになったからだ。「まちづくり」という呼称も多分それを受けている。これまで「まちづくり」的なる行為は「◯◯」だとか「△△」だとか「××」みたいな専門分野個別の仕事の帰結だったんじゃないかと思う。それが「まちづくり」という「分かりやすい」(のかどうかは知らないけど、少なくとも耳馴染みはいいと思う)言葉に変わったということは、要するに「分からせたい相手」が出てきたわけであり、それがつまり「みんな」だったと踏んでいる。もちろん「市民を代表する」ことが「みんなの決定」にとってどういう意味かは多分もっと複雑な話になるはずで、そこには「おそらく上に挙げたような状況はうまく行くまい」という想定があったと思うのだ。