石上純也―建築の新しい大きさのこと

豊田市美術館でやっている石上さんの展覧会をふらりと見てきて思ったこと書きます。それとは別に、会期が長かったのか結構痛みも激しそうだなとか、それどころか豊田市美自体の疲労もちらほら見えるなとか、そういうことも思った。ちなみに初めてここにきたときのウォルフガング・ライプ展が7年前で、今「雲が積層」されている空間にはそのとき花粉が蒔かれていた。



とてもいい写真と思ったので、ARTiTさんのところからしれっとお借りした画像


雲に住む(参照)という名前だったか、高層というにはあまりにも高すぎる建築が林立するという展示があった。あまりにも高いことになっているので数えてみると、ひとつの建物だけで100から200フロアくらいある。これがおおよそ100万棟建つとすると、だいたい日本の人口がまかなえる分の「フロア」ができる。ちなみに新築で住宅を100万棟建てるのに現在どれくらいの時間がかかるかというと、おおよそ1年ちょっとくらいだ。日本全土には現在おおよそ6000万くらい住宅があって、100万というとその60分の1、規模でいうと宮城県にある全住宅数が大体100万くらい。こんな説明していてもピンと来る人は少なかろう。書いてる自分自身が一番ピンときていない。


仮にこれからあまねく新築が「石上規模」で実現するとなると、来年の今頃には自分の家にプラスして「第二の家」が権利的に持てることになる。「家」というか、一人ひとりにワン「フロア」が行き渡る。さらに供給が続いていくと、「第三の家」「第四の家」と権利所有空間が増える。そのときおそらく第nの「家」という概念がうやむやになる。自分だけの広大な空間が複数個でき、家族でその何倍もの面積を持つことができると、「やっぱり実家が一番ね」なんて言ってもどうせみんな別にいくところがあるから「実家」で一緒になるとは限らないし、むしろひょんなことから(例えば)お父さんの第n家でなぜか「リアル家族」が集合したりしたらそっちの方が運命的だ。そしてさらに供給が続いていくと、例えば限界を60,000,000(日本に現状建っている全ての建物の数)×200(フロア)=12,000,000,000(120億)フロアとすると一人につき100フロアくらい持てることになるか、その「第nの」すら数えるのが面倒になってくる。「家があとn個ある」というせせこましい考え方がなくなる。どうせ「みんな持っている」からだ。群馬に実家、東京に家族、みたいなのっぺりした把握もなくなり、日本アルプスあたりの高度はおおよそ俺のもの、くらいの立体的感覚が台頭してくるかもしれない。


さらに続けていくと、「家を所有」するという考えが面倒になる。家は所有しなくたって、権利的にも物理的にもたっぷりとそこに「ある」ものでしかない。だから大事なのは「金目のものを誰かに奪われないこと」くらいになる。えらく都合良く考えてみたが、2008年だかもっと前だかに起きた「賃すための空間の数が貸して欲しい人の数を超えた問題」とは、要するに空間が「ダブついている」ということであり、この「微妙に余っている」という状態が問題だった。これが「図抜けて」余り、もはや何に対しての「余り」なのかもよく分からないくらい劇的な供給過剰が起こったら、そのとき「家の所有」(そもそも人類の気が確かなままである保証すらないが)は変わるし、住まい方そのものも変わるのではないかと思った。こういうのも「建築の新しい大きさ」なんじゃないかなと思った。